まず、フランクリン隊が最初の越冬地に埋葬した隊員の遺体から、彼らは深刻な鉛中毒を引き起こしていた可能性が高かった。そして、中毒は彼ら自身が持ち込んだ最新装備、つまり缶詰もしくは真水蒸留装置に起因すると推測されている。さらに、越冬地で病死者を出しながらフランクリン隊は流氷の海へ船を進めたものの、結局は氷に閉じ込められて進退窮まった。夏になっても流氷は海を閉ざしたまま、船に閉じ込められた隊員には健康を害し、死亡する者すらでた。
船内の死者は24名に達したばかりか、その中には隊長のフランクリン卿も含まれていたのである。そして、生き残りの隊員たちは船を放棄し、徒歩でカナダへの脱出を図った。船を放棄した理由は船内環境の悪化とも、食料が底をついたためとも考えられている。だが、彼らの脱出については、いくつもの大きな謎が残されていた。
まず、彼らが目指したカナダ本土のバック川はツンドラの不毛地帯を流れており、川魚や渡り鳥といった食料調達の可能性は未知数だった。さらに、たどり着いたとしても、氷の浮かぶ地図なき川を遡上しなければ脱出できないのだ。そのため、残されたメモからカナダへの脱出を図ったことが明らかとなった直後から、捜索隊のリーダーらも含む多くの人々が、フランクリン隊生存者の決断に疑問を感じたのである。
そればかりか、バック川よりもはるかに適した避難所が存在していたとの指摘もあり、彼らの決断によってより謎は深まったとさえいるのだ。
より適した避難所とは、フランクリン隊が2隻の軍艦を放棄した地点から北へ400キロほどの、フリービーチと呼ばれる海岸であった。そこは1825年に難破した軍艦フリー号にちなんで名付けられた海岸で、軍艦から引き揚げられた保存食が大量に残されていたのである。しかも、フランクリン隊の脱出より16年さかのぼる1842年には、やはり氷の海に閉じ込められた別の探検隊が、そのフリービーチに残された食料で越冬し、生還を果たしているのだ。
その上、フランクリン隊はフリービーチに食料が残存していることを、極めて詳細に把握していた。なぜなら、フランクリン隊には軍艦フリー号の遠征に参加し、食料などを引き上げた当事者と、その食料で越冬に成功して生還を果たした当事者が、それぞれ参加していたのである。
にも関わらず、彼らはフリービーチへ向かうこと無く、バック川への脱出を選択した。もちろん、その決断はフランクリン隊の全滅における、大きな謎のひとつともされているのだが、近年になってひとつの仮説が浮上した。仮説の鍵を握ったのは、またしても缶詰であった。
(続く)