フランクリン隊は探検の初期段階から問題が発生したらしく、早くも最初の越冬で隊員が病死している。近年の調査で病死した隊員の遺体から高濃度の鉛が検出され、鉛中毒をはじめとする健康障害を引き起こしていた可能性が高いことも明らかとなった。フランクリン隊が探検に用いた軍艦には、当時の最新機器や施設が備えられており、また同じく当時としては最新の保存食だった缶詰を大量に持ち込んだが、皮肉にもそれらの最新機器や缶詰が食料や飲料水を鉛で汚染し、隊員の健康を害したと推測されているのだ。
しかし、病死した隊員を越冬地に埋葬させたフランクリン隊長は探検を続行し、航行可能な氷の隙間をぬって艦をすすめた。そして、越冬地を出発した1年後の1847年5月には、付近の島へ小グループを派遣してメモを残した。空き缶に収められたメモには、隊がたどったそれまでの経路を簡潔にまとめつつ、全員元気と記されていた。ところが、メモの余白には最初のメモから約1年後の48年4月末に綴られた追記があった。
小さな文字でびっしりと書かれた追記には1846年9月から1年半に渡って流氷に閉じ込められ続けたこと、さらに最初のメモを記してから18日後にフランクリン卿が死亡し、他の隊員も合わせて24名も死亡していたことなど、フランクリン隊を見舞った恐るべき運命を示していた。そして、生き残っていた105名の隊員たちは船を放棄し、そこから400キロ先のバック川(グレートフィッシュ川とも呼ばれる)まで、徒歩での脱出を図った事も明らかとなった。
このメモと追記によって、フランクリン隊の足取りが多少なりとも明らかとなったが、同時に新たな謎をももたらしたのである。
(続く)