吉宗は御三家のひとつ紀州藩の第二代藩主・徳川光貞の四男として生まれた。藩主の息子といえども、四男では藩主の座につけるはずもなく、そのまま凡庸な人生を送る予定であった。特に長兄である徳川綱教は、五代将軍・徳川綱吉の娘・鶴姫を正室に迎えており、順調な人生を送っていた。しかも、息子を亡くしていた徳川綱吉は次期将軍として、娘婿である徳川綱教を考えるほどであった。
だが1704年、将軍家との重要なパイプ役であった鶴姫が死去。その翌年、長兄・徳川綱教も突然、病気で亡くなってしまう。その心労からであろうか、父である徳川光貞も亡くなってしまった。次男は早く亡くなっていたので、三男であった徳川頼職が紀州藩主の座に就くが、だが、この徳川頼職も父の死から一か月後に亡くなってしまった。
義理の姉、長兄、父親、三男が続々と亡くなり、反対する身内もなく吉宗は奇跡的に藩主の座につくことが出来た。後は将軍職を狙うだけであったが、尾張徳川家というライバルがいた。だが、ここでも謎の不審死が続く。まず1713年、第四代藩主・徳川吉通が死去し、三歳になる息子・徳川五郎太が藩主の座に就くが、その直後に亡くなってしまう。さらに、吉通の異母弟・徳川継友が第六代藩主となるが、これまた在位十数年で亡くなってしまった。こうして悉く身内のライバルが死んでしまい、吉宗は紀州藩主、そして幕府の将軍へと成り上がることに成功した。
享保元(1716)年、吉宗は紀州藩主から八代将軍となり、二百人を超える紀州藩士を連れて江戸に向かう。用心深い吉宗は、腹心たちを幕府の中に配置することで、自らの安全を確保しようしたのであろうか。
また、吉宗は藩主時代から使っていた御庭番を幕府でも採用している。これは吉宗直属の諜報部隊であり、江戸市中や大名、旗本の動きを探っていたと言われている。この御庭番こそが、吉宗が暗殺部隊として使っていた行動チームではないのか。後に第七代尾張藩主の徳川宗春が何かにつけて吉宗に反抗的な態度を取っているが、その背景には、肉親たちの死に吉宗の暗躍があったと確信していたからかもしれない。
(山口敏太郎)