『信長』(秋山駿)を読んでみた。信長の行動を検証し、信長という人間の本質に迫る評論。野間文芸賞、毎日出版文化賞受賞。
第1章「桶狭間」に、「私は実は、信長が、なぜ義元に勝ってしまうのか、そこのところがよく分からないのである」と書かれている。ナポレオンの戦争の方法を描くスタンダールが「彼の天才は、戦闘において、自分の軍勢を敵より常に到る処で二倍にすることにある」と解説したことを提示して、それは道理だが、「しかし、こんなことに天才が要るだろうか」と疑問する。
秋山は、桶狭間の戦いは、「双方が入念に準備した上での正面衝突」である点を指摘している。よくいわれるところでは、今川軍が弱かったとなるが、秋山はそれを信じない。武田・北条と対抗した今川勢は惰兵ではなく、今川義元は信玄、謙信に先立ち西征の兵を起こした「街道一の弓取り」と呼ばれた点に注目している。そのうえ、「いくら緒戦に勝利したとはいえ、まだ決定的な決戦もなく、居るところはほとんど敵地である。この頃の兵、十年も二十年も戦争について経験しないまでも見聞しているところの兵が、そんなに油断する訳がない」
秋山は、常識が義元を裏切ったと結論する。「信長の戦争という行為への徹底性が、はるかに義元を超えているからだ」
『信長』は、桶狭間の戦いに到達するまでの行動の中に信長の戦争への徹底性を見いだし、今川軍を破り、美濃攻略、安土城の築城、そして、本能寺の変に至るまでの信長の戦争への取り組み方とその変容を描きだしている。また、信長が掲げた「天下布武」の理想は、武力による統一だけではなく、新しい秩序の創造にあったと指摘する。「光秀のクーデターは、創造するもののないクーデターであった。創造性のない行為は最初から死んでいる」
以下、『信長』から、興味を覚えた内容を個条書きする。
【桶狭間まで】
・14歳で初陣し、27歳で桶狭間の戦いを迎えるまで、信長は一族間での闘争を重ね、戦争を深く省察し熟知した。その熟知と省察は、すべて、自軍に2倍する敵に勝つ方法を発明しなければならない今川との決戦を凝視していた。
・信長が作り上げたのは、「先頭を往く信長だけがシンボル」となる「決して降伏することのない、敵に内通するところのない軍隊」。
・信長は、参謀本部を必要とするような思考をしない。信長は、自分しかあてにしない。
【天下布武】
・信長は、本拠を清洲城から、何もない小牧山へ移す。何もない場所へ自分が単身乗り込んで、そこに一つの世界を創る。稲葉山城攻略後は、その地へ移り岐阜と名づける。自分の家、自分の出生地を否定し、自分のいる場所に新しい名前を与えて、新しい都市を建設しようとする。「天下布武」のシンボルは、安土城。
・信長が作り上げつつある新体制の中に、自分の居場所を見つけることができない部将たちが出現。松永久秀、荒木村重らの、勝ち目など最初からない謀反が起こる。
・安土の繁栄をみて「天下のことは定まった」と満足した部将も多かったのでは。毛利、上杉は、攻められても守るだけ。こちらから手を出さなければ、向こうからは出てこない。念願通り一国の支配者となった部将も多い。しかし、信長は戦争をやめない。
・「天下布武」の観念は激烈。嫡子信康切腹に家康が不服なら、武田勝頼と組んで信長に反旗を翻せばよいだけ。家康にはそのくらいの器量はあった。家康が真の大器となったのは、信康切腹を受け入れたのち。
・明智光秀の中で、信長が、戦争の天才から、ほとんど「国体」というものをも破壊しかねない政治的独裁者へ変わっていく。また、征夷大将軍になって幕府を開くということをしない信長は、光秀の中では理解不能。光秀は「天下のためにする。そうみずから信じ、信ずるところへ自分の心を駆った」(竹内みちまろ)