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家の延長としての国家

 2月4日(金)25:25〜28:25にテレビ朝日系列で放送された『朝まで生テレビ』のテーマは「激論! 日本は本当にダメな国なのか!?」というもの。その中で「家族を守ることと国家を守ることは同じか?」という議論があった。すぐに話が他に移ってしまったけれど、僕は興味深い話だと思った。

 堀江貴文さんは「国境などいらない」と言っていた。けれどもそれは侵略戦争の大義名分にもなりうる考え方で。日本の天下統一を果たした豊臣秀吉が朝鮮出兵したのも、第二次世界大戦における大東亜共栄圏構想も、その「国境などいらない」という発想によってなされた。だから国境をなくしたところで、国家の原型たる家制度が残る限り、利権のブラックボックスは消えない。

 星新一の『マイ国家』というショートショートがある。マイホームが独立国家と化して神話まであるという話だが、実際の国家も似たようなものだろう。1家族を「1世帯」とも言うが、それになぞらえれば、日本は1億2千万の家族を有する1世帯ということになる。

 東浩紀さんが言うように「国家は経済共同体」と考えたならば、国家の原型たる「家族」も「経済共同体」として運営される必要がある。「家族経営」という言葉は家族で事業を営む経営スタイルを指すが、一方で主婦や主夫も経済活動をしているとみなされることらすれば、あらゆる家族を「家族経営」と言ってもいいだろう。そしてその経済共同体の最小単位としての家族がある限り、領土問題など覇権争いは絶えることがない。

 最小単位は個人と考えることもできるが、それは共同体ではないし、外貨(これは外国のお金という意味ではなく、家の外という意味)を稼ぐ世帯主だけが家計を支えているわけではないから、やはり家族と考えるべきだろう。社会福祉は、本来なら家族や親族が面倒を見るべきところを、自治体が肩代わりする制度である。これも家の延長としての国家の側面ということになる。

 それにしても政治家はなぜ政治家と呼ばれるのか。政治屋だと一段格下げに見える。小説家じゃなくて小説屋なんてのもそうだ。屋号と家号の問題に関しては、また改めて書きたいと思うが、経済共同体の商売人と考えたら、いっそ国家じゃなくて国屋でもいいのではないか。

 堀江さんや東さんが「Twitterによる連携」などと話していたのは「もし国家が戦争を起こそうとしても国民が阻止する」ということだろう。政府の意思のみで発生する「世界大戦」から、大衆によるゲリラ戦術に国体が脅かされる「世界内戦」への変質。

 その経緯と展望について書かれたのが、限界小説研究会のメンバーによる評論書『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ』(南雲堂)である。メンバー以外の識者も交えた刊行記念トークショーは過去2回行われ、リアルライブにて告知させてもらっていた。近々3回目の予定もあるそうなので、その告知も兼ねてまた考察してみたい。(工藤伸一)

「世界内戦」を生き抜くために
http://npn.co.jp/article/detail/64589414/

第二次世界内戦のお知らせ
http://npn.co.jp/article/detail/17028034/

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