それは2010年1月1日元旦、妻A子(38)が倍も年の離れた夫B(66)にガソリンをかけ、火を放って全身にやけどを負わせた凄惨な殺人未遂事件の現場である。まさしく正月早々に起こった凶行であった。
表通りの喧騒とはうって変わって駅の裏側は閑散としていた。
駅を背にした目抜き通りは広いが人通りは少ない。雨に悄然とたたずむ通りを15分ほど歩いて左折。交番を目印に急坂を登るとほどなく貫禄十分、古い都営住宅の東久留米住宅の団地エリアに入る。この北端に面した、ちいさな白いアパートが凶行現場であった。
雨が降りしきるとはいえ地元民だけが通る細い道は、いっそう陰鬱な雰囲気に包まれている。近隣には、「フルーツ」などと大書してある喫茶店もあり、町は平成という時代からは取り残された風情。
筆者がここに来たのは理由があった。この事件がすでに終了しているのを個人的に知ったからである。そんなバカなという思いから探訪することにしたのだ。
人間にガソリンをかけて焼き殺そうとした殺人未遂の女が、裁判も受けずに無罪放免になったのである。
事件当時、夫Bさんは意識不明の重体。警察の調べによると、A子は「酒に酔っていて覚えていないが、夫が私がやったと言っているなら、私がやったんでしょう」と供述していた。女は1日午前10時ごろ、この自宅で夫と口論になり、火をつけ殺害しようとした。
口論を聞きつけた住民が玄関から火だるまで飛び出してきた夫を見つけ、バケツの水で火を消し、119番通報した。夫は救急隊員に女にやられた」と話していた。報道によると、まさに壮絶な現場であった。
地元民に話を聞いた。すると、A子は東南アジア系、色黒の外国人女性であることがわかった。特に美人不美人ということもなく、この事件を起こす前は、地元のスーパーで働いていたらしい。そもそも駅一帯が、喧騒のある駅表を中心に、意外に外国人が非常に多い土地柄なのである。
2か月前に、A子は年の離れた日本人夫のBさんとここに越してきていた。しかし。
「来てすぐから、強烈な夫婦喧嘩が絶えなかったね。4回パトカーが来た。その度ごとに消防車も出動して来ている」(近隣住民男性)
そんなA子には、人に火を放つ恐ろしい悪癖があったのである。
Bさん夫婦に家を貸した不動産業者と長年の付き合いがある住民の女性によると、
「ここらあたりを転々と引っ越していた方々なんです。突然激しい夫婦喧嘩が起こって、奥さんが放火攻撃する。それで何度も追い出されて、ようやくここに住処を見つけたようですよ。夫婦喧嘩の声は絶えなかったですね」
ついにはに正月早々の凶行と相成ったわけだ。
ところが警察による拘留期限いっぱいのA子の取調べの後、検察庁から裁判所への公訴提起はなされなかった。すなわちそれは、まさかのおとがめなしでの凶悪事件の完全終結を意味することになる。それは、なぜだったか。強い雨の中、取材を進めると意外なことがわかった。
お隣さんをはじめとした、この小さな通り沿いに住む近隣住民らは一様に口をそろえたのである。
「普段仲良かったからねえ」「むつまじかったよ」「だから事件にしなかったんだよ」
なんと夫婦仲は円満だったのである。
確かに、凶行現場となったアパートには、仲睦まじく2台の自転車、それに傘が2本、双方とも仲良くちょこんと並んでいたのが印象的だった。その光景は実際に仲睦まじさを象徴するものだったのである。
自宅には玄関の電気は点いていた。しかし中からの応答はなかった。
犬の散歩で 週3〜4回、A子と日本語で会話を交わしていた、という老婦人がつぶやいた。
「あの女の犬とうちの犬と仲が悪くてね、うちのが吼えて大変だから会うのが嫌だったんだよ」
夫婦喧嘩は犬も食わない、と言うが…。
事件当日は、警察の黄色いテープが張り巡らされ、野次馬と悲鳴とサイレンが交錯したというこの道に、なおも雨は降り続いていた。(了)