大翔鳳は昭和42年5月7日、北海道札幌市豊平区で生まれた。父親の剛さんは相撲で国体に19回も出場したことがあり、兄もバスケットボールでやはり国体に出場するなど、いわゆるスポーツ一家で、大翔鳳も中学時代から相撲を始め、北海高から大学相撲の名門、日本大学に進んだ。同期にNHK解説者の舞の海さん(元小結)がいる。得意は187㌢、144㌔もあった体を生かした強烈な突っ張りや右四つからの寄りや投げ。
日大時代、学生横綱やアマ横綱などのビッグタイトルには恵まれず、獲得したタイトルも1個だけだったが、上位入賞の常連だった。安定した実力者だったのだ。
卒業と同時に、日大の先輩である大翔山(現追手風親方)が在籍し、日大時代によく稽古に通った立浪部屋に入門。幕下60枚目付け出しで初土俵を踏んだ。平成2年初場所のことだ。
1年後の平成3年初場所、十両に昇進。これを契機にそれまで本名の「村田」で取っていた四股名を「大翔鳳」に改めた。師匠の立浪親方(元関脇羽黒山)と恩師の田中英壽・日大相撲部監督(現日大理事長)が話し合って決めたものだった。
子供がいなかった田中監督夫妻は、この素直で人柄のいい大翔鳳をまるで我が子のようにかわいがっていた。JR中央線の阿佐ヶ谷駅近くの、自ら経営するちゃんこ料理店名も、大翔鳳が亡くなるまで「大翔鳳」(現在はちゃんこ料理田中)で、いずれは養子にするつもりだったと言われている。
半年後の名古屋場所には入幕するなど、出世の足取りは順調そのもの。平成4年秋場所には大きなスポットライトも浴びている。大フィーバー真っ只中にいた貴花田(のちの横綱貴乃花)と激しく優勝争いを繰り広げたのだ。
この場所の大翔鳳は東前頭8枚目ながら、序盤から好調そのもの。8日目には強烈な右からの張り手で貴闘力をKOするなど、快調に勝ち進み、優勝争いに加わったのだ。惜しくも事実上の優勝決定戦と言われた12日目の貴花田戦で善戦むなしく敗れ、賜杯を抱く夢は潰えたものの、観戦していた時津風事業部長(元大関豊山)はこう絶賛している。
「相撲を覚えたな」
この場所、11勝をあげた大翔鳳は初三賞である敢闘賞を受賞した。ちなみに、舞の海も同じ場所の13日目の琴富士戦で幕内では史上初となる“三所攻め”を鮮やかに決めて、喝采を浴びている。
★32歳で見つかったすい臓がん
2場所後、大翔鳳は東小結に昇進。間もなく足首を痛め、低迷したが、2年後に再び2ケタ勝ち星をあげて2度目の敢闘賞を獲得し、小結に返り咲いた。さらに翌平成8年名古屋場所にも3度目の小結昇進を果たしている。
しかし、このあと、左腕も痛めて突っ張れなくなり、またまた低迷。平成9年春場所からはついに十両に陥落。リハビリを続けながら懸命に幕内復帰を目指していた。
そんな矢先のことだった。予想もしなかった病魔が大翔鳳を襲ったのは…。
平成11年春場所、大翔鳳はみぞおちのあたりが痛むなど、それまで感じたことがないような体の不調に悩まされ、場所後、病院で精密検査を受けた。すると、すい臓に腫瘍が見つかったのだ。かなり進行したすい臓がんだった…。
大翔鳳は日頃から体に気を配り、タバコはまったく吸わず、酒もホンの付き合い程度。健康に関する本をよく読んでいた。
「この水が体にいい」
そんな記事を見つけると、すぐさま取り寄せるなどしていたほどだ。どうしてこんな“健康オタク”の男が死病に取り付かれるのか、そのメカニズムはよく分からないが、この突然のがん宣告に大翔鳳は戸惑い、焦り、嘆いたことはあちこちにかけた電話で分かっている。それでも、最後には、次のように腹をくくってみせた。
「どうなるか、分かりませんが、がんに打ち勝つためにできるだけのことはやってみる」
とりあえず次の夏場所は全休。場所後の6月11日付で慌ただしく引退して準年寄大翔鳳を襲名し、闘病生活に入った。幕内生活34場所、三役3場所、三賞2回、十両優勝1回。まだ32歳になったばかりだった。
しかし、この働き盛りの若さが逆に災いしたのかもしれない。都内の東京女子医大付属病院に入院したものの、病気の進行は予想以上に早かった。それこそ日ごとに衰えていったのだ。
病魔の進行を食い止めるには、強い薬を使わざるを得ない。するとその副作用で頭髪が抜けた。
関取のシンボルでもあるマゲは、なにごともなければ、引退して1年前後の準備期間を置いて両国国技館で引退相撲を開き、切り落とすのが慣例だ。このときの収入や祝儀が第2の人生の出発資金にもなる。
今年9月30日に開いた元横綱日馬富士の引退相撲には約1万人の観衆が詰めかけ、断髪式では元朝青龍ら、400人もの人がハサミを入れた。その結果、1億円を超す収入があったと見られている。しかし、大翔鳳の場合はあまりにも突然の引退で、かつ深刻な状況だったため、とても引退相撲を開催するどころではなく、体力と比例するようにまだ結ったままのマゲの髪も少なくなる一方だった。
3月時点で140㌔もあった体重も、半年後には90㌔にまで激減した。
「やるとしたら、いましかない」
そんな大翔鳳の姿を見た舞の海さんは、自ら発起人となって急遽、断髪式を行うことを決めた。ただし、事情が事情なので、両国国技館ではなく、都内のホテルで。それもごく身近な人だけを集めて。
★引退から半年後に永眠
その日は10月3日の日曜日だった。参加者は、横綱武蔵丸や元大関のKONISHIKI(小錦)、師匠の立浪親方(元小結旭豊)ら大相撲関係者をはじめ、芸能界からも同じ北海道出身の大黒摩季さんら、計300人が出席。痩せてすっかり細く、また肌も透けるほど白くなった大翔鳳は、全員からマゲにハサミを入れてもらい、切り落とすとマイクを握り、震える声でこう気丈に挨拶し、参加者の涙を誘った。
「これまで対戦相手と闘ってきたが、これからは病気と闘っていこうと思っています。涙は今日まで。1日も早く病気を治して土俵で後進の指導に当たりたい」
断髪式のあとのパーティーでは、北海高時代の恩師だった杉本和紀校長が「乾杯」と音頭をとるべきところを、
「がんばれ」
と叫び、みんなで大翔鳳を励ました。
しかし、残念なことに、このあと病状は一気に悪化していった。
入院中の大翔鳳について母親の登美子さんは後に語っている。
「高校を卒業して上京してからずっと離れて暮らしましたので、その間の息子の生活ぶりは知らないんです。闘病中、家族が交代で付き添っていましたが、私にとってはまるで息子が帰ってきたようで、何年かぶりで幸せなときでした」
このように、現実は想像以上に過酷だったようだ。
「薬で朦朧としていたせいか、あの子は突然、ものすごい力で起き上がって病室のドアに向かい、こう言うんです。“札幌に帰りたい。お父さん、お母さん、行こう、行こう”って」(登美子さん)
こうして、引退からわずか5カ月後の12月4日午前10時47分、命の限りを燃やし尽くした大翔鳳が、家族や立浪親方らに見守られながら静かに息を引き取った。遺体は大翔鳳が最後まで帰りたがっていた故郷の北海道に運ばれ、札幌市内の斎場で2日後の6日に通夜、7日に告別式が営まれた。
「あの歌を聞きたい」
7日の葬儀の前には、大翔鳳がしきりに言っていた北海高の校歌が流され、棺の中には大好きだった大黒摩季のCDや愛車のベンツの最新モデルのカタログなども入れられた。
実はこの日、舞の海さんらも参列する予定だったが、千歳空港が大雪で閉鎖され、参列できなかった。
最後のお別れのとき、葬儀委員長を務めた杉本・北海高校校長は、その雪空に向かって涙ながらにこう語りかけた。
「四股名の通り、天国で鳳のように大きく飛翔してください」