また、太閤殿下御座船の水手頭(かこがしら、船長)である「明石与次兵衛」は遭難直後に自害し(入水説あり)、後に主たる細川忠興が篠瀬に配下の供養塔を建てている。供養塔は灯台代わりの目印となり、何度かの再建を経て、江戸期にはシーボルトもスケッチを残している。供養塔は明治期の航路標識設置に際し海中へ投棄されたが、大正期の岩礁爆砕工事の過程で発見され、曲折を経て現在は門司のめかり公園に設置されている。
興味深いことに、巌流島と隣接する山口県の彦島には、秀吉遭難に関する異伝がいくつか残されている。特筆すべきは前回の記事で取り上げた毛利謀反伝説であり、もうひとつは秀吉の御座船が当時最大の軍船である「日本丸」だったと言うもの。この「日本丸」は朝鮮出兵に際して秀吉が集めた軍船のひとつで、中でも最も大きく優れていたことから、太閤自ら命名したとされる。ただ、日本丸は秀吉遭難の直前に安骨浦海戦へ参加しているばかりか、沈没こそ免れたが大損害を受けているため、伝承に歴史的な根拠はない。
とはいえ、どの地域で、いつごろから、どのような変化を経て、このような伝承が発生し、かつ現代まで生き延びたのかは非常に好奇心を刺激する知的なミステリーであり、学問的に取り組む価値を秘めた謎でもある。
いわゆる都市伝説のたぐいにも、意外と古い起源を持つものがあり、反対に古くから伝わると思われていた神話や民話にも、昭和戦前期に端を発する物や、中には戦後生まれのものさえ存在するという。こういった謎を解明するのが、ミステリハンターの醍醐味とも言えよう。(了)