てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。
この一行詩が「春」という題名をもつこと、収録されているのが「軍艦茉莉」という詩集であること、さらには作者安西冬衛の名がひとびとの脳裏から完全に忘れ去られたとしても、一行詩は朽ち果てることなく残るだろう。それが文芸の力というものである。一方、蕎麦(そば)に含まれるポリフェノールの一種ルチンには毛細血管の崩壊を防ぎ中高年を脳内出血の恐怖から救済する作用があり、そして韃靼蕎麦はルチンの含有量が並みの蕎麦の100〜200倍もある。蕎麦っ食いの中高年が定年で新橋中から消え去ったとしても、丈夫になった毛細血管だけは朽ち果てることなく残るだろう。
「O SO BAR」は、蕎麦屋でありバーであることは、文字のとおり。名物は、その驚くべきルチンの含有量を誇る韃靼蕎麦である。カップルが「つきじ松露」からお取り寄せの玉子焼きなど豊富なサイドメニューを平らげながら一杯やっている。二人から距離を置いて女性のお一人様が、薄手のグラスで冷酒をくっと乾した。そうしてしばし、20センチ前方の漆喰(しっくい)壁を凝視している。虎ノ門方面から屈託をかかえて、息も絶え絶えに新橋までたどり着いた、公務員系OLさんとみた。すべての気持ちを、漆喰に集中しているかのような形相がいたいたしい。興味は尽きないが、達磨大師のように壁とにらめっこをしている彼女とは目を合わせないようにして厨房のほうを眺める、ふりをする。
漫画家にして江戸文化評論家の杉浦日向子さんは、「ソバ屋では、きつく匂う話題は避けたい。なま臭い色恋の修羅話、うさん臭い商談、キナ臭い口論は、禁煙席より徹底して廃すべきだ」(「ソバ屋で憩う」新潮文庫)とおっしゃっている。二杯目の冷酒をくっと乾したOLさんは、きつく匂う話も一緒に飲み込んだ。エライ。
雪塩とまとの“雪塩”は沖縄の宮古島特産の塩で、これも驚くべきことにミネラル含有量世界一としてギネスブックに載っているとのこと。雪の結晶状になっている塩は美しく、甘い。驚嘆すべき含有量、が好きなお店なのだな。
で、締めの韃靼蕎麦である。ルチンは、濃い山吹色。香りは、いわば、お線香の香り。味は、苦い。苦いが旨(うま)い。旨いが、苦い。そしてかなりの固ゆでであるからして、これらの特性はいかんなく口中を支配する。
「くいしん坊!万才」の初代くいしん坊・故渡辺文雄氏(俳優)がときどき使っていた言い回しがみごとだった。「お好きな方にはたまらんでしょうなあ」。
予算2600円。
東京都港区新橋2-20-15 新橋駅前ビル1号館2F