地元の友達に話しをしたら、すでにその友達は中村のことを良く知っていて、出遅れた私は必死になって、色々な情報を集めるようになっていた。翌月21日に2ndアルバム『Be True』が発売されるのだが、当時は金欠続きだったことで、発売してすぐに買うこともできず、当時主流だったレンタルレコードショップに行っても貸し出し中で、発売して1週間以上経っても聞くことができなかった。そんな時に中村あゆみを教えてくれた地元の友人が、レコードを買っていたので、カセットテープにダビングしてくれた。これまで『翼の折れたエンジェル』しか知らなかったのだが、どの曲を聴いても良曲で、ダビングしてもらったメタルテープが擦り切れるんじゃないかと思うくらいリピートして聴きまくっていた。
しかし私は楽曲がすごい好きなのに、なぜかコンサートなどに出向くことは無く在宅で聴くだけで満足していた。というのも当時は行きたい現場が多すぎて、手が回らなかったのが本音である。そんな矢先に私にとって大きな転機が訪れた。1986年12月頃に遂に中村と出会うことになった。その頃は『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)に素人としてだが出演していたので、頻繁にフジテレビに出入りをしていたので、たまたま『夜のヒットスタジオ』の本番がある日に私がフジテレビの廊下を歩いていたところ、目の前から中村が歩いてきたのである。かなり遠くからでも存在感があって、少しずつ近づくにつれて、私の心臓の鼓動が早くなってきた。目の前に中村が来た時に、何か話しかけようと思っていたが、とっさに取った行動は会釈だった。緊張しすぎて、その時にできた精一杯のことが会釈だった。我ながら情けないと思ってしまった。
悔しさも強かったが、翌年の12月には、このすれ違いを越える出来事が待っていた。両国国技館で新日本プロレスの興行が行われ、私はその時に会場整理のアルバイトをしていた、そこに偶然に中村が観戦に来たので、見つけた瞬間に近づき座席へと案内した。そこで歩きながらだが話しができた。今に思えば完全に職権乱用だが、その時は精一杯のおもてなしをしたつもりである。ちなみにこの日は、TPG(たけしプロレス軍団)がビッグ・バン・ベイダーを連れて来て、さらに暴動まで起こってしまったプロレス史に残る出来事があった日である。プロレス好きの私にとってはこんなすごい日に中村に会えたことも私の歴史の1ページとして刻まれた。
90年代以降は中村と会うことは無くなったが、プロレスラーの鈴木みのる選手が入場曲として中村の『風になれ』を使用していたこともあり、プロレス会場でも間接的だが中村を感じることができた。
中村に対して色々な思いがあったが、一度も生で歌っている姿を見たことが無かったのも現実である。ある時、中村のステージを観たいと衝動的に思ったことがあった。かなり時が経ってしまったが、2009年8月のことである。中村が『VOICEII』というアルバムを発売することになり、そのリリースイベントとして、ラゾーナ川崎でミニライブをすることになった。思い立った私は早朝から川崎に出向いて、最前列をキープ。ミニライブということで。5曲くらいしか歌わなかったが、そこで私が中村を知るキッカケになった『翼の折れたエンジェル』を歌ってくれた。さらにこのアルバムがカバーアルバムだったこともあり、別のアーティストの曲も披露してくれた。そこで尾崎豊の『僕が僕であるために』を歌ってくれた。まさかそこで大好きな尾崎の曲を歌ってくれるなんて思いもしなかった。私にとってすごいサプライズだった。30分程度の短いミニライブだったが、24年の歳月を経て、ようやく生のステージを観ることができた。
このミニライブを観てからすでに8年近くが過ぎてしまったが、今でも中村は現役で歌い続けているので、今度はミニライブではなくて、しっかりしたライブを観に行きたいと思っている。
【ブレーメン大島】小学生の頃からアイドル現場に通い、高校時代は『夕やけニャンニャン』に素人ながらレギュラーで出演。同番組の「夕ニャン大相撲」では元レスリング部のテクニックを駆使して、暴れまわった。高校卒業後は芸人、プロレスのリングアナウンサー、放送作家として活動。現在は「プロのアイドルヲタク」としてアイドルをメインに取材するほか、かつて広島カープの応援団にも所属していたほどの熱狂的ファンとしての顔や、自称日本で唯一の盆踊りヲタとしての顔を持つことから、全国を飛び回る生活を送っている。最近、気になるアイドルはNMB48の三田麻央。