議員は、まず自分で法案の草案をつくる。その上で、関係省庁とのすり合わせ、法案を成立に持っていくための党への政治的根回し、委員会答弁まですべて一人で務めなければならない。せっかくつくった草案も、まず自分の省庁の不利になることには極めて敏感な官僚が、逐一その“不備”を突いてくる。わが官僚の優秀さは世界に冠たるものであり、こうした官僚の言い分を一つ一つ論破するにはそれを超える頭脳明晰さが要求される。
ために、並の議員にはこの議員立法はできず、戦後政治史を振り返っても、長い議員生活の中で一つの議員立法もないまま引退する議員は山のようにいる。そうした中で、たった一人で33本の議員立法を成立させた田中の卓抜な政治的能力に驚かざるを得ないとともに、このうちの実に21本をまだ30代前半の陣笠議員にして昭和25、26、27年の3年間に成立させたとなれば、あらためて目を見張らざるを得ないということである。
加えるなら、田中における議員立法は単に出身地の新潟県というエリアに限定したものでなく、敗戦に打ちひしがれたこの国の復興に不可欠な全国家的な視野に立ったものだったことが白眉であった。公営住宅法であり、電源開発促進法であり、国土総合開発法などであったが、とりわけ瞠目すべきは「道路三法」であった。
「道路三法」とは、戦後日本の復興はまず鉄道の敷設整備があり、それに次ぐ交通網整備のためのガソリン税法、道路法、有料道路法の三つを指す。後の田中政治の「先見力」の象徴とも言うべき法律となるのである。
いかに田中が死力を尽くし、この法律の必要性と向かい合ったかをのぞいてみよう。
田中はまず、昭和27年4月、他の議員二人と図って道路整備の骨格を決める道路法を提案、これをこの年6月に成立させた。しかし、“難関”はここからであった。整備のための財源をどこに求めるか。道路法ができても、予算の裏付けがなければ道路整備はできない。田中が目を付けたのは、ガソリン税を道路整備のための目的税とするということであった。昭和27年12月、田中は25人の議員と図り、これを議員立法として提出したのである。
しかし、案の定の官僚の壁にぶつかった。当時の建設省は独自の財源で長期の道路整備計画ができることでもとより賛成だが、大蔵省が大反対をした。税を特定の目的に使う「特定財源」は大蔵省としては予算配分の権限を侵されることから、目的税は税制本来の姿に反するとの“筋論”で対抗してきたということだった。
一方、まだ陣笠の田中には、もとより大蔵省の厚い壁を簡単に突破できる自信などはなかった。結局、このときの提出では衆院は通過したものの参院で野党や与党の「大蔵族議員」の大反対に遭い、審議未了、廃案を余儀なくされてしまった。
田中の本領は、しかしここからである。ひるむことなく、翌年6月、再びこのガソリン税法を衆院に提出、田中は建設委員会・大蔵委員会の連合審査でほとんど一人で答弁、論戦に応じ、裁いてみせた。結果、このガソリン税法は野党あるいは大蔵省の強い反対を押し切る形で同年7月に成立を見ることになった。驚くべきことに、この法案提案時の田中はわずか当選2回、国会議員歴も5年にすぎなかった。同時に、これは一方で、戦後初めて行政府に君臨する大蔵省が立法府の軍門に下ったという“事件”でもあった。
学歴、門閥ともになしの田中はその約10年後の44歳で大蔵大臣になり、「すべての責任はこの田中角栄が背負う。何でも言ってほしい。できることはやるッ、できないことはやらないッ」と“宣言”、その卓抜な政治的能力と人心収攬で大蔵官僚を平伏させることになるのだが、実はこのガソリン税の議員立法成立が、田中にとっての大蔵省に「初めて勝った日」ということでもあった。
田中は後年、言っている。
「私の発想は常にガリバー的だ。物事を鳥瞰的、俯瞰的に見て方針を立てていく。方針を示すのが政治家の仕事、役人はガイドライン(指針)を正確に与えられれば生きたコンピューターになる。方針を示せない政治家は役人以下。選挙に受かりたいだけで行動が伴わずの政治家と同様、大成はあり得ない」
田中は官僚を大蔵省を、どう“籠絡”していったのか。議員立法成立への過程で、なお人心収攬の極みがのぞけるのである。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。