当時の欧米諸国はアジアの一国である日本に対して、科学技術の低い国と見なしていた。そのために、当時のアジア地区には旧式戦闘機を配備し、日本の戦闘機よりもまだ性能的に勝っていると思い込んでいた。
やがて日米開戦となり、日本海軍の戦闘機の性能に彼らは恐怖した。ゼロ戦は当時のアメリカ軍の配備していたどの戦闘機よりも、高性能であると認識されたのである。
当時のアメリカ海軍の主力戦闘機はF4Fワイルドキャット戦闘機であり、ゼロ戦よりも防弾性能を除き、ゼロ戦の方がすべてが性能的に上であった。アメリカ軍はゼロ戦を「ゼロ・ファイター」と称して恐れた。
奇跡の戦闘機ゼロ戦はどのようにして生まれたのであろうか。
ゼロ戦は三菱重工の堀越技師により設計された。当時の三菱への軍の要求は、当時の技術では困難とされるレベルだったのである。
まず、最高速度は時速500キロ以上。上昇力は3000メートルまで3分30秒以内。航続力は巡航速度で6時間以上。武装は7.7ミリ、20ミリ機銃各2丁。空戦性能は九六式艦上戦闘機に劣らないこと、というのが軍の要求だった。
堀越技師の不眠不休の努力によりゼロ戦は開発されたのであるが、その性能を保つために、徹底的な重量軽減がされた。主力の桁材には当時住友金属が開発した超々ジェラルミンを使用し、さらに重量軽減のために、桁材に丸い穴を開けた。エンジンには三菱製の「瑞星」エンジンが使用されたが、3号機以降は940馬力の中島製「栄」エンジンを搭載した。
ゼロ戦の初陣は1940年9月13日中国重慶において。ゼロ戦13機は中華民国のソ連製戦闘機I-15、I-16戦闘機27機すべてを撃墜したのである。その後の活躍は皆さんもご存じのことだと思う。
さて、近年ゼロ戦に新たな勲章が与えられた。2008年米技術専門誌のポピュラーメカニクス誌11月11日号において、史上最強の軍用機ベスト6において、日本のゼロ戦が第2位に選出された。
理由は「少なくとも大戦初期においてゼロ戦に太刀打ちできる機体は皆無だった」ということである。
ゼロ戦は日本人の心を未だ掴んで離さない、名戦闘機である。
(藤原真)