萬田は短大在学中の1978年、ミス・ユニバース日本代表に選出。同年7月、メキシコ開催のミス・ユニバース世界大会に出場したが、同大会では無冠だった。翌79年、タレント活動を開始。1980年、NHK連続テレビ小説『なっちゃんの写真館』で女優デビューした。1981年、公開映画『夏の別れ』では大胆なヌードシーンを披露し、大きな話題に。以降は、数多くの作品に出演するなどトップ女優の座に就いた。
私生活では2011年8月、事実婚の夫で「リンク・セオリー・ジャパン」の社長兼CEO・佐々木力氏をスキルス性胃がんにより亡くしている。今月10日、『グータンヌーボ2』(フジテレビ系)では、佐々木氏との思い出を語った。
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実は萬田、26歳の時に7歳年上の佐々木氏と出会うのだが当時、佐々木氏には妻子がいた。1987年2月、不倫が公となり、同年7月に萬田は妊娠7カ月であることが発覚。10月、すべての仕事をキャンセルして渡米した萬田は米・NYで長男を出産し“未婚の母”となり1988年1月、萬田が長男と共に帰国する。その際、萬田は「今の生き方を誇りに思っています」「未婚の母の状態は快適。自信があるから産んだんです」など発言し、世間からさらなるバッシングを浴びた。
同年6月、萬田は長男とともに佐々木氏名義の都内の豪邸に引っ越し、1990年2月に佐々木氏が長男を認知。しかし、1994年の秋ごろに佐々木氏の離婚が成立した際も入籍せず、佐々木氏が亡くなるまで事実婚のままだった。
「不倫発覚当時から、萬田は世間のバッシングに悩み、円形脱毛症になるほど苦しんだといいます。その一方で、『本当の愛というのは形じゃない』との信念から、事実婚を継続。前妻の3人の子どもとも一緒に旅行するなど交流していたようです。また、2009年には佐々木氏の会社が買収された際に約60億円の株の売却益を得て、株主だった萬田も約10億円の株長者にもなったんだとか」(芸能ライター)
はたからすれば、萬田は幸せに映って見えただろう。ところが佐々木氏の亡くなる直前の2011年8月、『週刊新潮』(新潮社)が佐々木氏には元モデルのアラフォー女性との隠し子がいると報道。佐々木氏も、幼稚園に上がる前の女児を認知しているという。報道当時、萬田はショックのあまりコメントを出しておらず、莫大な相続の行方が注目される中、佐々木氏はこの世を去った。
2012年6月、『女性セブン』(小学館)は佐々木氏が、東京・自由が丘の約200坪の土地を遺産として、5人の子どもたちに相続したことを報じ、愛人の子どもの相続分は法定額よりも2.4倍も多い額であると伝えた。これに、「萬田の思いは複雑」と示唆し、萬田が佐々木さんのお墓に愛人が供えたとみられる“赤い花”を処分するよう、声を震わせて怒ったと報じている。
同年10月、萬田は『とくダネ!』(フジテレビ系)で「本当に(隠し子のことは)何も知らなかったことでした。私だけを愛してくれていると思ってましたから、けっこうガツンときました」と初めて“夫の隠し子”騒動の心境を語った。
2018年4月、『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に萬田が出演。“隠し子”ついて触れた萬田は「びっくり仰天ですよね。5番目の子どもって」と呆れ、「スキルス性がんだったので、そっちがかわいそうだし、(子どもを打ち明けられた)こっちは腹立つし。半々で、うまい具合にどういう気持ちか分からなかったですね」と“本妻”としての立場を主張。続けて「博愛主義というか、人ったらしな人でした」と佐々木氏を評価した。
今年、佐々木氏の13回忌を迎える萬田。“未亡人”となった今も、浮いた話は出てこないが、次なるお相手も気になるところだ。