関ケ原の戦いの頃、2代目候補としては、秀忠以外に、兄の結城秀康、弟の松平忠吉、松平信吉、松平忠輝がいた。
しかも関ケ原の戦いで秀忠は、大失態をしてしまっている。このとき、秀忠は、中山道を通り西軍に組した信濃の真田昌幸と信繁(幸村)親子を攻略してから関ケ原に向かうはずだったのだ。
このとき秀忠の兵3万8千、真田はわずか3千。
ところが軽く勝てるはずが大苦戦。真田の上田城を落とすこともできず、上田城はあきらめて大急ぎで関ケ原に向かうも、ときすでに遅し。
天下分け目の大決戦はわずか半日で家康が勝利し、秀忠が家康と合流できたのは、戦いの5日後。しかも家康の4男、松平忠吉が先陣をきるなど大活躍した後だった。
関ケ原の戦いの後、家康は重臣を集めて跡取りについて相談したことがあるという。
一説では、松平忠吉を推す者がもっとも多く、ついで結城秀康であったが、大久保忠隣のみが
「これからの太平の世には武勇ではなく、文徳の秀忠様しかいない」
と述べ、この言葉によって家康は2代目を秀忠に決めたという。しかし秀忠は、どうにも戦下手であったようだ。
慶長19年(1614)10月11日、家康は20万人もの兵を率いて駿府城を出立、豊臣秀吉の嫡男秀頼と対決することとなる。いわゆる大阪冬の陣だ。このときも秀忠はやらかしてしまう。
江戸からの出立に手間取ってしまい、家康が京都の二条城に入ったその日にようやく出陣するしまつ。秀忠が率いる兵は6万である。
関ケ原で大遅刻の二の舞にならぬよう、秀忠は必死で二条城に向かうも、焦るあまり最後まで秀忠についてこれた兵はわずかに30名ほど。これでまた秀忠は家康に怒られてしまうのだ。
それでも家康は2代将軍を秀忠とした。ただし将軍になってから、一切家康に逆らわない操り人形となった。
ただ、夏の陣で豊臣秀頼が自刃し完全勝利となると、「これからは何事も秀忠が決めよ、わしに伺いだてする必要はない」と、家康は秀忠に政治のすべてまかせたのだ。
豊臣家がなくなり、もはや徳川家に逆らうものを見定めたとき、家康は秀忠に「武勇ではなく文徳の政治」を任せたのであろう。
元和2年(1616)4月17日、家康死去。
あまりにも偉大な父の死の直後から、秀忠は変わる。苛烈とも言える大名統制をはじめたのだ。その数、取り潰した大名家41家、没収した石高439万石。
秀忠は自分の凡庸さを知っており、二度と戦国の世に戻さないための処置であった。さらに秀忠は徳川御三家を、軍事的要衝である尾張・紀州・水戸に配置する。
また、家康時代の独裁政治を改め合議制とした。これも自分の能力を自覚してのことだろう。こうして秀忠は着々と幕府の地盤をかためていく。秀忠は戦時の武将としては3流でも平時の政治家としては1流であったのかもしれない。
ダメな2代目と思われがちな秀忠であるが、この男がいたからこそ、徳川幕府は270年も栄えることができたわけだ。
プロフィール
巨椋修(おぐらおさむ)
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。
2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。