江戸時代
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その他 2023年05月22日 22時01分
「おぐらが斬る!」忍者って本当はどうなの? 手裏剣は? あの有名製薬会社は忍者の末裔が?
海外では、なぜだか日本の忍者が大人気であるらしい。ある日本のタレントがカナダのラジオ番組に出演したときのこと。地元キャスターが目をうるうるさせながら「今でもニンジャっているのですか?」と、聞いてきたという。地元キャスターの期待を裏切ってはいけないと思ったタレント某は、思わず「最近はずいぶんと少なくなりました。特に都会では」と答えた。地元キャスターは満足そうに頷いていたという。「忍者」という言葉が日本語として定着したのは、1950~60年代の忍者ブームのときで、大衆小説や映画・漫画で盛んに使われるようになってからだという。江戸時代以前は、「忍び」「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ)」「草(くさ)」などと呼ばれていた。歴史上、忍者がいたのは間違いない。忍者たちが活躍したのは戦国時代だ。忍者の仕事はいまでいうスパイ活動。敵の国に忍び込み、敵の陣形や城、町の情報を得ることなどであった。当然、忍者衣装の定番、黒装束など目立つ格好はせず、目立たない恰好で情報収集をするのが主な仕事だ。甲賀流伴党21代目宗家で、三重大学特任教授川上仁一氏によると、忍者の象徴とも言える手裏剣は「当時、鉄が貴重なうえ、命中率・殺傷能力が低いので、あまり使っていなかったのではないか」という。忍者が活躍したのは戦国時代だが、普段は農業を営みながら、戦が起こると、それぞれの武将や大名に雇われて活躍していた。それが太平の世、江戸時代になると城下町に住むようになる。残されている資料によると、仕事内容は門番や警護役で、忍者の給料は切米30俵3人扶持、いまだと年収約100~200万円程度の下級武士や足軽といった低い身分であった。忍者は敵地に潜入して情報収集をするが、薬売りに化けることもある。そのためには薬品の知識が必要で、「メンターム」で有名な近江兄弟社や、「トローチ」で知られる日新薬品工業など、忍者の末裔が創業した製薬会社がある。現在に残されている三大忍術伝書『正忍記』には、忍術の極秘伝(奥義)として、「人を破らざるの習い」という教えが書いている。これは相手を論破したり打ち負かしたりせず、よい人間関係を作るのが、忍術で一番の極意であるというのだ。忍者のイメージは、アクロバットのような軽業で、敵の天井裏に忍び込んだりするものだが、最終奥義が人と仲良くするというのがおもしろい。これは現代のビジネスマンにも通じるものかもしれない。プロフィール巨椋修(おぐらおさむ)作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。
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社会 2023年03月11日 22時50分
すごいぞ家康! 家康はなぜ首都を京都や大坂にしなかったのか?江戸、現在の東京?
天下統一をした徳川家康は、首都を秀吉のように京都や大阪にせず、当時としては田舎の江戸にした。普通なら朝廷のある京都や貿易にも便利な大坂にしなかったのか? なぜ大坂幕府ではなく江戸幕府にしたのか?家康が天下を取ったとき、これからの自分の政権を末代まで続けるため、歴史に学ぶことにした。そしていくつか出た答えのひとつが「朝廷に気をつけろ」である。平安時代、平清盛の平家は「平家にあらずんば人にあらず」と、おごりに驕り、たかぶるに高ぶった。清盛は天皇と外戚になることで権力を安定化しようとしたが、結果武士である平家が公家化してしまった。そして「奢れる平家久しからず」となり、平清盛の死後、急速に力を失い源頼朝に滅ぼされてしまう。平家政権が一代で終わったのと違い、鎌倉幕府は、約150年も続く長期政権を保つことができた。京都から遠く離れた鎌倉は朝廷の影響を受けにくく、政治に余計な横やりが入りづらかったのだ。源頼朝や北条の鎌倉幕府は、当時の武士(御家人)は「一所懸命」といって、自分の土地を守ることに命を懸けていた。鎌倉政権に忠誠を誓うなら、その土地の所有を永久に認めることを保証した。武士たちはこれに感動し、鎌倉幕府に従い戦ったのだ。続く室町幕府の首都は京都。幕府は南北朝の混乱に巻き込まれ、やがて戦国時代の発端とされる応仁の乱がはじまり幕府の権力は失墜した。では秀吉の豊臣政権はどうであったか?秀吉の政策は、源頼朝の鎌倉幕府より、清盛の平家政権のやり方に近い。清盛が日宋貿易でおおいに儲け、驕り高ぶったたように、秀吉は自身の栄華の誇示と海外拡張政策に夢中になった。秀吉の官位は武人の最高位である征夷代将軍よりも、公家の最高位である関白をえらんだ。秀吉も公家化しつつあったのだ。平家政権も室町幕府も場所は京都である。豊臣秀吉は京都・伏見と大坂を首都としたが、秀吉の死後、家臣団に分裂が起こり、これも一代で終わった。家康が天下を取ったとき、京都や大坂のように朝廷のすぐ近くにいては、徳川家も徳川家臣団も、朝廷の権力争いに巻き込まれたりして、やがて公家化してしまうと考えたにちがいない。源頼朝のように朝廷から離れた関東に首都を置き、清盛や秀吉のように商業を重視し海外に目を向けるよりも、内政と農業を重視し、朝廷は無視して武士のみで日本を動かすことにした。もし家康が大坂や京都に幕府を開いたら、もしかしたら徳川家臣団も公家化し、朝廷に取り込まれ、朝廷の内紛やわがままに翻弄されていたかもしれない。家康は朝廷の恐ろしさをよく知っていたのだろう。プロフィール巨椋修(おぐらおさむ)作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。
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その他 2023年02月25日 22時30分
どうする家康? 無能の徳川将軍二代秀忠とは
あまりにも偉大な父親徳川家康の影に隠れて、2代将軍秀忠はあまり目立たない将軍である。関ケ原の戦いの頃、2代目候補としては、秀忠以外に、兄の結城秀康、弟の松平忠吉、松平信吉、松平忠輝がいた。しかも関ケ原の戦いで秀忠は、大失態をしてしまっている。このとき、秀忠は、中山道を通り西軍に組した信濃の真田昌幸と信繁(幸村)親子を攻略してから関ケ原に向かうはずだったのだ。このとき秀忠の兵3万8千、真田はわずか3千。ところが軽く勝てるはずが大苦戦。真田の上田城を落とすこともできず、上田城はあきらめて大急ぎで関ケ原に向かうも、ときすでに遅し。天下分け目の大決戦はわずか半日で家康が勝利し、秀忠が家康と合流できたのは、戦いの5日後。しかも家康の4男、松平忠吉が先陣をきるなど大活躍した後だった。関ケ原の戦いの後、家康は重臣を集めて跡取りについて相談したことがあるという。一説では、松平忠吉を推す者がもっとも多く、ついで結城秀康であったが、大久保忠隣のみが「これからの太平の世には武勇ではなく、文徳の秀忠様しかいない」と述べ、この言葉によって家康は2代目を秀忠に決めたという。しかし秀忠は、どうにも戦下手であったようだ。慶長19年(1614)10月11日、家康は20万人もの兵を率いて駿府城を出立、豊臣秀吉の嫡男秀頼と対決することとなる。いわゆる大阪冬の陣だ。このときも秀忠はやらかしてしまう。江戸からの出立に手間取ってしまい、家康が京都の二条城に入ったその日にようやく出陣するしまつ。秀忠が率いる兵は6万である。関ケ原で大遅刻の二の舞にならぬよう、秀忠は必死で二条城に向かうも、焦るあまり最後まで秀忠についてこれた兵はわずかに30名ほど。これでまた秀忠は家康に怒られてしまうのだ。それでも家康は2代将軍を秀忠とした。ただし将軍になってから、一切家康に逆らわない操り人形となった。ただ、夏の陣で豊臣秀頼が自刃し完全勝利となると、「これからは何事も秀忠が決めよ、わしに伺いだてする必要はない」と、家康は秀忠に政治のすべてまかせたのだ。豊臣家がなくなり、もはや徳川家に逆らうものを見定めたとき、家康は秀忠に「武勇ではなく文徳の政治」を任せたのであろう。元和2年(1616)4月17日、家康死去。あまりにも偉大な父の死の直後から、秀忠は変わる。苛烈とも言える大名統制をはじめたのだ。その数、取り潰した大名家41家、没収した石高439万石。秀忠は自分の凡庸さを知っており、二度と戦国の世に戻さないための処置であった。さらに秀忠は徳川御三家を、軍事的要衝である尾張・紀州・水戸に配置する。また、家康時代の独裁政治を改め合議制とした。これも自分の能力を自覚してのことだろう。こうして秀忠は着々と幕府の地盤をかためていく。秀忠は戦時の武将としては3流でも平時の政治家としては1流であったのかもしれない。ダメな2代目と思われがちな秀忠であるが、この男がいたからこそ、徳川幕府は270年も栄えることができたわけだ。プロフィール巨椋修(おぐらおさむ)作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。
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ミステリー 2020年10月17日 23時00分
約1000年前、創建時の扉絵が発見された平等院鳳凰堂と鳳凰像に関する有名な噂
10円玉の表面に刻印されていることでも有名な、京都の平等院鳳凰堂。 平等院は江戸時代に取り外された鳳凰堂の旧東面中央扉に、約1000年前の創建時に描かれたものとみられる来迎図が残っていることを確認したと12日に発表した。この扉は江戸時代の1670年に扉が新造された際に取り外され、以降平等院で保管されていたもの。年月を重ねて激しく損傷していたため、2018年に修理が行われた。翌19年に東京文化財研究所が非破壊非接触の光学調査を行ったところ、絵が浮かび上がってきた。絵は、建物のすぐ上を複数の菩薩が飛んで臨終を迎えた者のもとに向かう構図。生前に徳を積んだ最上官位の人への菩薩が来迎している絵であり、大胆かつ印象的な絵だと平等院はコメントしている。 >>江戸時代、富山に11メートルの人魚「海雷」が出現していた!?<< 平等院は藤原氏ゆかりの寺であり、阿弥陀如来をまつる鳳凰堂は1053(天喜元)年に建立された。鳳凰堂は「観無量寿経」に基づき、西方極楽浄土とその教主である阿弥陀如来を観想させるために建立されたと言われている。鳳凰堂を飾る壁扉画や菩薩像、庭園は極楽浄土の様子を再現したものであり、鳳凰堂全体は密教の阿弥陀曼荼羅を表現したものと考えられている。今回発見された扉の来迎図は、衆生を再現された西方浄土に迎え入れるために描かれたものなのかもしれない。 さて、鳳凰堂の中央大棟の両端を飾る鳳凰像。1041(長久2)年2月に仏師に命じられて作られ阿弥陀堂の上を飾るようになったもので、阿弥陀堂が「鳳凰堂」の名前で呼ばれるようになったのは、近世の人々がこの像に基づいてそう呼ぶようになったからだとされている。 もちろん、10円玉の表にある鳳凰堂にも、小さな小さな鳳凰がきちんと鎮座しているのだが、こちらの鳳凰には有名な噂がある。「10円玉の鳳凰は左右で形が違い、それぞれオスとメスで分かれている」というもの。確かによく見れば左右で形状が違うように思えるが、これは本当なのだろうか。 実は平等院鳳凰堂の鳳凰像には、雌雄の区別はないのだという。中国の伝説では鳳がオス、凰はメスとされ雌雄一対で陰陽の調和を示すとされているが、雌雄はあっても外見上の差異はないのだという。例えばニワトリのように、オスだから鶏冠があるなどといった明確な違いはないそうだ。しかし、鳳凰堂の鳳凰像は左右の北像と南像で微妙に大きさが違う。向かって右側の北方像が高さ98.8センチで幅34.5センチ、左側の南方像が高さ95.0センチで幅44.5センチとのことだ。この微妙な大きさの違いから「オスとメスで分かれている」と噂されるようになったのかもしれない。参考記事https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/379346(山口敏太郎)
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ミステリー 2020年08月23日 23時00分
江戸時代、富山に11メートルの人魚「海雷」が出現していた!?
新型コロナウイルスの流行から、江戸時代の妖怪アマビエが話題になったこともあり、ここ最近ネット上で様々な妖怪伝説を見ることも多くなった。妖怪好きに知られたアマビエだが、多くの人に知られたことをきっかけに、その原型と考えられているアマヒコ(漢字表記多数)や神社姫など類似した特徴を持つ妖怪がネットで紹介され、話題になることも少なくない。 >>スサノオノミコトはファッションリーダー?日本画に描かれた神様の姿に驚き<< 先日、ネットで話題になったのは江戸時代の日本に出現したとある「人魚」だった。それは文化2(1805)年に越中国放生渕四方浦(現在の富山県新湊市旧町部か)で「人魚」が出現、漁師たちを脅かしたため人々が討ち取る騒ぎになった、というもの。人魚と言えば、わが国日本の伝説であれば「食べれば不老不死になる」とか、西洋であればきれいな女性の姿をしており歌声が美しく…となるが、富山に出た人魚は全身が「三丈五尺(約11メートル)」もある巨大なもので、頭に般若を思わせる金色の角が2本生え、鳴き声は歌どころか「一里(約4キロ)先まで響き渡る」ほどだったという。 もはや妖怪を通り越して怪獣レベルであり、普通の人魚とさすがにスケールが違うためか「海雷(かいらい)」という別の妖怪としての名前もつけられている。そんな巨大な人魚を、地元の人々が50丁もの鉄砲を持ち出して仕留めた顛末が当時の瓦版に書かれている。 果たして、この人魚の正体は一体何だったのだろうか。クジラやイルカとの誤認説もあるが、髪の毛があったり腹部などが赤い、という描写から「現代でいうリュウグウノツカイだったのではないか」という説も存在している。富山の方ではリュウグウノツカイやサケガシラなどの深海魚を、長く伸びた赤いひれが衣装やかんざし、髪をイメージさせることから「花魁(おいらん)」と読んでいたという。現代でも富山近海ではリュウグウノツカイが漂着することがたびたびあるため、巨大な人魚も「大きなリュウグウノツカイの漂着例だったのでは」と考えられるのだ。実際、問題の人魚の顔は女性的に描かれている。 一方で、地元漁師に「花魁」と呼ばれてきたリュウグウノツカイが、ただ大きかっただけで化け物と受け取られるのだろうか、という疑問も残る。話が伝わっていく際に姿が変貌したのか、それとも当時の社会不安や事件を巨大魚の話に投影させ、恐ろしい人魚の姿へ変貌したのか。今となっては、真相は分からない。(山口敏太郎)
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ミステリー 2020年05月24日 23時00分
地震が起きるのを予知したい!江戸時代の「地震予知機」と「地震預防説」
ここ数日にわたって、震度3〜4の地震が日本各地で起きている。 先日リアルライブでも紹介させていただいた、「5月11日に地震が起きる」という予言にも近かったため、未だに様々な憶測を呼んでいるようだ。 >>絶対にずれない電波時計がずれた!?「5月11日に地震が起きる」予言と電波時計<< さて、先日は「電波時計のズレや故障は地震が起きる予兆」とする説を取り上げた。確かに地震の前には異常な電磁波が伝播する事が発生するため、その影響を受けて誤作動を起こすことは考えられなくはないという。しかし、あくまで可能性の問題であり、今のところ確かな因果関係があると言える結論は出ておらず、今後も調査・研究を重ねる必要があると見られている。 ちなみに地震大国である日本では、昔から様々な地震予知の研究もされてきていた。特に江戸時代には幾度も直下型の地震が起きたため、なんとかして予知できないものかと考えられるようになったのだ。 中でも被害が大きかったものが安政の大地震で、夜間に江戸を襲った直下型地震だったため、地震と同時に起きた火災で多くの被害が出たとされている。 この地震の直前、浅草茅町の「大すみ」という眼鏡屋で、店先に展示してあった磁石に着いていた釘が落下。その二時間後に震災が起きたという報告があり、磁力と地震に何らかの関係があるのではないかと考えられるようになった。 そこで、磁石と目覚まし時計を組み合わせて作成されたものが「地震予知機」だ。仕組みは簡単なもので、地震が起こる直前に磁石が弱くなる現象を利用し、鉄針が磁石から離れると重りが落下。その動きに連動して上方にある鈴が鳴る構造になっている。これを兵学者・佐久間象山が改良したものが長野の象山記念館に現存しており、他にも国内にいくつか存在しているそうだ。骨董品の鑑定で有名な番組の「開運なんでも鑑定団」でも2回ほど登場しており、いずれも非常に貴重なものという鑑定結果が下されている。 また、幕府も蘭学者の宇田川興斎に命じて蘭書を翻訳した『地震預防説』を刊行。これによると「地震は地下に鬱伏せる電気より発するものにして、夫(か)の大気の時令節を失い、雷電空中に起ると一般の理なり」とあるため、地中深く銅製の柱を埋め込み、「越列幾的児(エレキテル)」を空中に放出することで、地震の発生を防ごうとした。これは日本初の地震予防策であるとされている。 目に見えない電気や地磁気と地震の関係性に着目していたのは、江戸時代からだったのだ。(山口敏太郎)
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ミステリー 2020年01月19日 23時00分
死者を生き返らせた江戸の怪人 電気人間・弥五郎
現在、街中には突然の心停止を起こして倒れた人を救護できる医療機器のAEDが設置されている。我々の体に血液を送っている心臓に異常が起き、血液を流すポンプ機能を失った際に電気ショックを与えることで、心臓の活動を正常に戻すための医療機器だ。 電気ショックで心臓を再び動かす、という事は現代の我々ならば得ている知識だが、そのような医学知識もましてやAEDのような医療機器もなかった江戸時代に、実践してしまった人物が存在している。 その人物の名は弥五郎と言い、武州川越(現在埼玉県川越市)の城主・酒井讃岐守忠勝家中の人間であったという。彼は手や体から電気を出すことができたそうで、「鯉の弥五郎」「鯉抱き弥五郎」とも呼ばれていた。彼の電気を帯びた手にかかれば、水中の鯉は逃げることが出来ないとされ、弥五郎が水中で抱き取った鯉は釣ったり、網で捕獲した鯉とは違って美味しく、三代将軍家光に献上されたほどだったという。 せっかくほかの人にはない能力を持っているのに、将軍に認められたのが「鯉を美味しく捕まえる」ことだったのは笑えるが、死んだ自分の母親も体内に蓄積した電気を与え蘇生させたと伝えられており、きちんと人命も救っている。話によると、弥次郎は自分の母だけではなく、難病を抱えた人も抱きつくことにより病気を治すとされており、江戸で非常に人気のあった人物なのである。 今で言うところの電気治療と言うわけであろうか、この人物は何らかの理由で電気を蓄積したり、体内で発電することが可能だったのかもしれない。 実際、電気人間=帯電人間は実在しており、「スライダー体質」と呼ばれる。スライダー体質は、体から電気を発し電球やテレビなど自由に操作できる能力のことである。 この弥五郎の元ネタは、明治末期から大正にかけて活躍した小説家・江見水蔭(1869〜1934)の短編小説『鯉を抱く男』(『現代大衆文学全集・江見水蔭集』平凡社)であるようだ。もっとも、電気人間はまったくの創作ではなく、江戸時代の随筆『責而者草(せめてはぐさ)』に記載された記事がベースになっている。 江見水蔭の小説では、晩年の弥五郎は、相撲の丸山仁太夫の後見役になったり、酒井の指令を受けて“抱きつき魔の狂人”に扮して、江戸市中の情報収集をしたという。電気人間が狂人に扮し密偵として江戸を駆け巡るとは、まるで現代でも通ずる設定だ。弥五郎が酒井の密偵だったという可能性がまったくないわけでもないし、ストーリーを考えるだけでもワクワクしてしまう話である。
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その他
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2023年05月22日 22時01分
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社会
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