地元キャスターの期待を裏切ってはいけないと思ったタレント某は、思わず「最近はずいぶんと少なくなりました。特に都会では」と答えた。地元キャスターは満足そうに頷いていたという。
「忍者」という言葉が日本語として定着したのは、1950~60年代の忍者ブームのときで、大衆小説や映画・漫画で盛んに使われるようになってからだという。江戸時代以前は、「忍び」「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ)」「草(くさ)」などと呼ばれていた。
歴史上、忍者がいたのは間違いない。忍者たちが活躍したのは戦国時代だ。忍者の仕事はいまでいうスパイ活動。敵の国に忍び込み、敵の陣形や城、町の情報を得ることなどであった。
当然、忍者衣装の定番、黒装束など目立つ格好はせず、目立たない恰好で情報収集をするのが主な仕事だ。
甲賀流伴党21代目宗家で、三重大学特任教授川上仁一氏によると、忍者の象徴とも言える手裏剣は「当時、鉄が貴重なうえ、命中率・殺傷能力が低いので、あまり使っていなかったのではないか」という。
忍者が活躍したのは戦国時代だが、普段は農業を営みながら、戦が起こると、それぞれの武将や大名に雇われて活躍していた。
それが太平の世、江戸時代になると城下町に住むようになる。残されている資料によると、仕事内容は門番や警護役で、忍者の給料は切米30俵3人扶持、いまだと年収約100~200万円程度の下級武士や足軽といった低い身分であった。
忍者は敵地に潜入して情報収集をするが、薬売りに化けることもある。そのためには薬品の知識が必要で、「メンターム」で有名な近江兄弟社や、「トローチ」で知られる日新薬品工業など、忍者の末裔が創業した製薬会社がある。
現在に残されている三大忍術伝書『正忍記』には、忍術の極秘伝(奥義)として、「人を破らざるの習い」という教えが書いている。これは相手を論破したり打ち負かしたりせず、よい人間関係を作るのが、忍術で一番の極意であるというのだ。
忍者のイメージは、アクロバットのような軽業で、敵の天井裏に忍び込んだりするものだが、最終奥義が人と仲良くするというのがおもしろい。これは現代のビジネスマンにも通じるものかもしれない。
プロフィール
巨椋修(おぐらおさむ)
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。
2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。