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退所組とは関わってはいけない? 石原プロ鉄の掟か、舘ひろしが浅丘ルリ子との初共演に戸惑いも<共演NG?【犬猿の仲】の有名人>

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舘ひろし

 発売中の『女性自身』(光文社)が、神奈川・横浜繁華街に現れた俳優の舘ひろしと柴田恭兵をスクープ。2人は、かつてサングラス姿で一世を風靡した1986年のドラマ『あぶない刑事』(日本テレビ系)でW主演を務め、このたび6年ぶりに最新作映画の撮影が始まった。2人は路上に止まったオープンカーに乗り、通行人はその風景を一目見ようと続々と現れ、通常以上に厳重な警備態勢が敷かれたようだ。

 同ドラマは1987年12月、劇場映画第1作『あぶない刑事』が公開され、大ヒットを記録。『あぶない刑事』といえば、バイクに乗ったまま銃を撃つシーンが舘の“お約束”であるが、70歳を過ぎようと“危ない”撮影にも意欲的だという。

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 舘は1975年、総括するバイクチーム・クールスからの選抜メンバーで結成されたロックバンド・クールスのボーカルとして「紫のハイウェイ」で歌手デビュー。また、俳優としてのキャリアもスタートさせ1976年、公開映画『暴力教室』で銀幕デビューを果たした。

 1979年、初出演したドラマ『西部警察』(テレビ朝日系)シリーズをきっかけに故・渡哲也さんと出会い1983年、石原プロモーション(以下、石原プロ)へと入社。2011年3月、石原プロの取締役を辞任し、看板俳優として第一線を走り続けた。

 芸能界随一の結束力を誇った石原プロだが、退社した者とは共演NGという“鉄の掟”が存在していたといわれる。なかでも、故・石原裕次郎さんとの共演数が最も多かった女優・浅丘ルリ子もその一人であるが2021年5月、舘主演のドラマ『生きて、ふたたび 保護司・深谷善輔』(NHK)の制作スタートで浅丘との共演が発表され、49年越しに“掟”が破られたと話題を集めた。

 舘は、石原プロ独立後初の主演ドラマとなり、浅丘との共演はメディアをざわつかせた。浅丘は石原プロ時代、一時期は役員を務めたこともあるが、石原プロを離れてからは、石原プロ所属の俳優との共演は一切なかった。
 
 石原プロは1963年に設立。2021年5月の『女性セブン』(小学館)によると、旗揚げの際に、裕次郎さんが声をかけたうちの1人が浅丘だったという。当時、テレビの普及で映画業界が下火になり、映画スターの活躍の場が減る中、石原プロは映画製作に力を入れていた。浅丘は日活のトップ女優だったが、映画への思いが強く1966年に石原プロへ移籍したという。
  
 ところが1972年、浅丘は石原プロを退社。退社の原因は「石原プロの“失敗”」だと同誌は報じている。石原プロ元常務取締役・仲川幸夫氏によれば、大ヒット作品に恵まれるも「1970年の(公開映画)『ある兵士の賭け』が大コケしました」と当時を振り返り、「公務員の初任給が約3万円の時代に、6億円もの負債を抱えることになった」と明かした。仲川氏はこれが遠因となり、映画製作の幅を狭めざるを得なかったとし、映画に出続けたかった浅丘の退社は「自然な流れ」と同誌に説明した。
 
 同誌は、浅丘が退社して以降、「裕次郎さんとの共演はパタリとなくなり石原プロ所属の俳優との共演もない」としたうえで、どちらが共演NGにしていた可能性を示唆。これに仲川氏は、「表立ってNGを出していたわけではありません」とやんわり否定しつつも「“退社組と共演NG”という明文化されていない“鉄の掟”のようなものは確かにあった」とも認めた。

 とはいえ、舘と浅丘が石原プロに滞在していた期間は重なっていない。両者の共演の経緯について、“ドラマ関係者”は「ドラマのキャスティングの際、制作サイドは石原プロが解散したこともあり、舘さんに浅丘さんとの共演を打診した」と同誌に語っており、「舘さんは多少の戸惑いはあったようですが、浅丘さんへのリスペクトもあり、決断した」という。浅丘も了承したようで2021年5月、浅丘は「石原裕次郎さんとのご縁で、今回、初めて舘ひろしさんと共演することになりました」と同ドラマのキャストコメントを寄せた。

 2人の共演を裕次郎さんも喜んだことだろう。

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