関ジャニでは丸山隆平と村上信五と横山裕が96年にジャニーズ事務所に入所。翌97年に大倉忠義と安田章大が入り、翌98年にはKAT-TUNの上田竜也と亀梨和也と中丸雄一が入った。
>>意外に充実? 相次ぎ脱退していったKAT-TUN元メンバーたちの今<<
ところが、亀梨は入所した翌99年から2000年にかけて大人気学園ドラマ「3年B組金八先生」第5シリーズ(TBS系)に生徒役で出演。大抜てきの余波は05年、山下智久とダブル主演した学園ドラマ「野ブタ。をプロデュース」(日本テレビ系)で大爆発し、作中と同じ「修二と彰」の名義でリリースした主題歌「青春アミーゴ」はいきなりミリオンヒット。同年で最も売れたシングルCDとなった。この時、KAT-TUNはまだジャニーズJr.。すでにすさまじい人気を誇っていた。
その現実を見せつけられたのが、関西ジャニーズJr.時代の関ジャニだ。関西ジャニーズの聖地と言えば、地元の大阪・道頓堀にある大阪松竹座。由緒ある劇場では数々の名作が上演され、関西ジャニーズ勢が最初に踏む夢の舞台としても浸透している。
関西のローカル番組に出られるようになり、徐々に知名度が上がってきた関ジャニも、ようやく伝統のステージで単独公演を開くことができるようになった。初日こそ、3階席までびっしり埋まった。しかし、2日目は激減。3日目は2階席が潰され、中日(なかび)には1階席も半分ほどしか埋まらなくなった。
「今の関ジャニならイケると踏んだスタッフの大誤算でした。そこで急きょ、当時すでにコンサートチケットが手に入らないほど人気グループになっていた亀梨和也さんら関東のジャニーズJr.を呼んで、ゲスト出演させました。すると、連日超満員になりました」(アイドル誌の古参ライター)
KAT-TUNは06年にデビューした後、東京ドームの単独連続コンサート記録を打ち立てるなど快挙を達成。亀梨&赤西仁は“仁亀コンビ”と呼ばれ、載った雑誌が飛ぶように売れるなどの伝説を作った。
対する関ジャニは、同世代の嵐がスター街道を歩んでいく様を見ていただけに、追い抜かれることには慣れていた。それでも、ホームである松竹座を埋めることができず、後輩の力を借りて満員にした屈辱は、その後も深い傷になったという。
そんな関ジャニも、「紅白歌合戦」の大舞台ではKAT-TUNの大先輩。ここへ来て、借りをしっかり返せたようだ。
(伊藤由華)