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松任谷というと、「ユーミン」の愛称で知られる音楽界の巨匠だ。1971年に17歳で作曲家としてデビューし、72年に歌手・かまやつひろしがプロデュースしたシングル『返事はいらない』で荒井由実としてデビュー。75年以降は第一次ブームを迎え、76年に音楽家・松任谷正隆と結婚した。その後も次々と名曲を誕生させ、その傍らで他アーティストに楽曲も提供。81年のシングル『守ってあげたい』以降は正隆氏が演出を手掛け、多くのヒット曲を世に送り出し、歴史的な記録を次々と更新していった。
日本の音楽界に大きく貢献してきた松任谷だが、かつてライバル視してきた歌手・松田聖子との間には確執が生じていたという。
1982年1月、松任谷はトップアイドルとしての地位を確立していた松田のシングル『赤いスイートピー』の作曲を手掛けた。当時の松任谷はニューミュージックのトップランナーとして活躍していた。
当初、松任谷は松田への楽曲提供を頑なに断ったという。2015年11月に配信されたニュースサイト『NEWSポストセブン』によれば、両者ともにトップを争うライバル同士として敵視していたことに加え、松任谷はアイドル歌手の松田に相違感を抱いていたようだ。
だが、同曲を作詞した作詞家・松本隆氏から「ライバルの曲を作ってみない?」と声をかけられ提供を快諾したという。
そして、1984年5月にリリースした『時間の国のアリス』の提供を最後に、両者は決別したとされている。
理由は、松田が1985年に交際していた歌手・郷ひろみとの破局会見で、「生まれ変わったとき、絶対、一緒になろうね」と郷と誓い合ったと宣言していながらも、同年6月に俳優・神田正輝と電撃結婚したことにあるという。これら一連の報道や松田のショーじみた会見に松任谷は違和感を持ち、歌手として不信感を持ったのではといわれた。
だが、それから31年の時を隔てた2015年10月。デビュー35周年を迎えた松田はシングル『永遠のもっと果てまで』をリリース。同曲の作詞は松本氏が担当し、作曲を松任谷が手掛けたのだ。
松本氏は松田のアニバーサリーにふさわしい新曲の誕生には、松任谷が適任と確信したという。その詳細は、同月放送の『SONGSスペシャル 時を超える青春の歌 ~作詞家・松本隆の45年~』(NHK)に両者と松本氏が出演し、語り合っている。
その際、松任谷は「聖子さんが“風雪を越えて、帆をあげて旅立とう”って歌詞を、昔だったら歌えなかったかもしれないんだけど、そこに時間がすごくこもってる。それが伝わってきて…」と発言。すると、松田は手で顔を覆い、泣き崩れた。これは、両者が抱えていた31年もの確執の清算を意味すると同サイトでは報じている。
また、新曲リリースに当たっては、松任谷が松田のこれまでのイメージを覆した作品を用意するも、松田は妥協を許さずその楽曲に対して意見したという。両者のプライドのぶつかり合いで、当初予定していたリリースの時期は大幅に遅れた。
「発売が遅れ、一時は“お蔵入り”と騒がれたことも。その後、リリースした松田の作品に松任谷は関わっていませんが、関係は良好だとも」(芸能関係者)
日本が誇るトップアーティスト同士、いつかまた共演できる日がくることを願いたい。