番組は1994年4月にスタート。当時のナイナイは、若手芸人としてかなりトガッており、つまらないバラエティ番組や、ほかのタレントに対する毒を吐きまくっていた。岡村はもちろん、落ち着いたイメージの矢部浩之もトガッており、挨拶を無視されたと勘違いしたDJの赤坂泰彦を猛批判(のちに誤解だと判明し和解)、新人時代に稽古中に騒いでいたのを注意したイラストレーターのみうらじゅんを「嫌い」と述べていた(こちらものちに和解)。
>>レギュラーが『ぐるナイ』1本のナイナイ、コンビ活動復活の日も近い? 再始動計画の伏線は<<
当時の彼らは、大阪から東京へ本格的な進出を果たした直後であり、「周りは全員敵」といった思いがあったためであった。さらに、スケジュールは多忙を極め、ほとんど寝る暇のない生活も送っていたため、ラジオは寝不足のテンションに、若手芸人エネルギーが合わさり、得も言われぬ空気を醸し出していた。
当時のナイナイの番組は、リスナーを巻き込んだ炎上というよりは、業界内で物議を醸し出していたと言える。番組スタッフが芸能事務所に呼び出され、「厳重な注意」を受けることもあったという。現在のように、深夜ラジオ番組での発言が、ネットを通して拡散される状況にはなかったとは言え、業界内ではしっかりとチェックされていたのだろう。
そんな過激な番組が変化を遂げるのは、2000年代の半ばあたりからだろうか。岡村が加齢とともに、自らを「おじいちゃん」と呼ぶようになり、業界内への毒舌は後退し、自らの風俗好きネタや、モテない独身の自虐ネタなどを話すようになった。これが最終的に問題発言に繋がってしまうのは、2014年9月に矢部が卒業し、岡村の独走に対しコントロールがきかなくなったのが大きいだろう。やはり岡村には相方が必要なのかもしれない。