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芸能界最高額の慰謝料を支払った沢田研二、田中裕子との再婚は2万円の地味婚?【芸能界“ドロ沼”不倫ファイル】

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田中裕子

 歌手の沢田研二が、糖尿病を患っていることを9日発売の『女性セブン』(小学館)が報じた。現在、沢田は通常より距離を取った超厳戒態勢の中、主演映画『キネマの神様』の撮影に挑んでいる。
 記事によると撮影にあたり、沢田は感染対策を徹底することを条件としたという。その理由として、沢田は糖尿病を患っていると現場のスタッフに明かしたようだ。それもそのはず、新型コロナに感染すると糖尿病のような基礎疾患を抱えている人は重症化や死亡のリスクが高まることが報告されている。

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 沢田というと、「ザ・タイガース」のリードボーカルを務め、1967年2月にシングル『僕のマリー』でデビュー。セカンド・シングル『シーサイド・バウンド』でブレイクし、スターダムに駆け上がった。とりわけ、同グループの中でも端整な容姿を持った沢田は、貴公子的存在として10代の少女や20代の女性を中心に熱狂的な人気を獲得。数々の伝説を作った同グループは、71年1月に解散した。
 私生活では、7年間の交際を経て元ザ・ピーナッツの伊藤エミと1975年6月に結婚。79年3月に長男を授かったが、87年1月に離婚した。そして89年、いくつもの困難を乗り越え、女優・田中裕子と再婚。夫婦が略奪の末に結ばれたことは、多くの人が知っていることだろう。

 2人が出会ったのは82年4月。田中が26歳の時、再結成したザ・タイガースのコンサートで沢田と対面したのがきっかけといわれている。その後、同年末公開の映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』で共演し、やがて2人の熱愛がささやかれるようになり、83年夏ごろには沢田が田中のマンションに通う姿も目撃されるなど、メディアを大いに騒がせた。

 不倫に対して2人はノーコメントを貫き、沢田に関しては連日追い回す芸能リポーターに怒りをあらわにすることもあった。そして86年、沢田は伊藤と息子を置いて家を出た。このとき、すでに沢田は離婚届に判を押していたという。

 別居から約1年後の87年1月に離婚が成立。その際、沢田はほとんどの資産を伊藤に譲渡するなど、支払われた慰謝料の総額は18億円にも上ったという。芸能界最高額といわれる莫大な慰謝料は今なお語り継がれている。

 だが、再婚へのステップには試練が待っていた。離婚直後、沢田の育ての親である渡辺プロダクション創業者の社長が死去。結婚どころではなくなった上、“不貞”報道によるファン離れが加速し、ファンクラブが解散するという事態にまで追い込まれたのだ。
 まさにどん底に落ちた沢田に、今度は破局説がささやかれ、世間を騒がせた不倫劇についに終止符が打たれたかと思われた。しかし、2人の固い絆はそう簡単に壊れるものではなかった。田中の父親が死去した際、沢田はコンサートから駆け付け田中家の親族席に座り、出棺の際も田中の後ろで支える姿があったという。

 そして、田中の父親の一周忌が明けた89年、晴れて2人は入籍。当時、芸能人の派手婚が主流だった時代、夫婦は島根・出雲大社で一般の5組のカップルにとともに地味婚を挙げた。驚くことに、初穂料2万円を納めた至ってごく普通の挙式だったようだ。

 その後、夫婦は都内のホテルで披露宴を開催するも、中継や取材は一切ナシ。そして、宴の最後には「私は沢田さんという大好きな神様に会えたことを感謝します」という田中の日記が読み上げられた。田中の幸せそうな笑顔が印象的だったという。

 結婚して30年以上の月日が流れ、いつの間にか“おしどり夫婦”と呼ばれるまでになった。その昔、白い目で見られながらも2人の決意は強固たるものであり、純愛に満ちあふれていたことは確かだったようだ。

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