これは何らかの事情で育てられなくなった新生児を育てるといって貰い子にし、親から養育費を受け取った後、殺害するというもの。明治末期から戦前にかけてたびたび社会問題となり、新聞にも取り上げられている。
当時、日本では中絶を含む堕胎は違法とされており、また浮気による性行為は姦通罪として罪になるため、浮気の果てにできた子供は、父親不明として母親が産んで育てるしかなかったのである。
しかし、当時の日本は貧しく子供を満足に育てられなかったという事情もあり、いくばくかの養育費を払い、代わりに育ててもらうというビジネスが密かに誕生していたのだ。
中でも、1913(大正2)年に発覚した「愛知貰い子殺人事件」は犯人が女性3人だったこと、そして彼女らが殺した嬰(えい)児の数が実に300人以上だったことが分かり当時、大きな話題になった。
実行犯のひとりである坂倉しげは1898(明治31)年から貰い子を育てる仕事をしていた。当時は日露戦争により死亡した日本兵が多くおり、子供を育てられない母親が続出。しげは愛知県在住で、名古屋などから「子供を預かってほしい」とする声が相次いでおり、1913年までに200人近い子供を預かっていた。
もちろん、しげ個人が200人近い子供を育てられるはずもなく、預かっては殺し、別の地域へ引っ越し、その地域でも子供を預かり殺し、別の地域へ引っ越す……ということを日常的に繰り返していたのである。当然、預けた母親は怒り狂うが、自身が浮気の果てに子供を産んだこと、子供を他人へ預けてしまったことへの後ろめたさがあり、訴える人はいなかったのだ。
そんな中、しげには女性の協力者も現れ始め、「貰い子ビジネス」は軌道に乗った。しかしやはり悪いことはできないもので、ある日しげに子供を預けた芸者が、何度も子供の顔を見ようと交渉したが、拒否されて怪しみ警察へ通報した。
そこでようやく貰い子殺しが発覚し、しげらは逮捕され、「あまりに残忍な所業」と死刑が確定。翌年には刑が執行されている。
現在ではまず聞かない「貰い子殺し」。歴史の裏には多くの子供の犠牲があったのである。
文:穂積昭雪(山口敏太郎事務所)