1911年(明治44年)2月、神奈川県横浜市の港に停泊していたアメリカ汽船にて、日本人少女2名を売買しようとした男が逮捕された。
警察が調べたところ、この男の背後には巨大な人身売買の組織が存在していることがわかり、主犯格とされる人物は「三日月のお増」と呼ばれる36歳の女性であることがわかった。
三日月のお増は本名を坂口増といい、現在の東京都品川区の海軍大尉の家庭に生まれた所謂「お嬢さん」であったが、16歳の時に家出し海外へ。
以来、ホノルルやシアトル、サンフランシスコなどに流れ着き、その圧倒的なカリスマ性と度胸、英語力を駆使し、地元の不良軍団のトップになり、次第に人身売買にも手を染めていったという。
「三日月のお増」という通り名は、額にナイフで切られたような跡があり、それが三日月模様に見えたことからあだ名されたものである。
彼女は自身が女性で、さらに恵まれた美貌を持ち合わせていたということもあり、外人にウケのいい「美少女」を見極める能力は高く評価されていたようだ。
三日月のお増は逮捕後、偉大な父の墓前の前で懺悔していたというが、その後の足取りはわかっていないという。
また、三日月のお増のバックには香港の領事が付いており、誘拐した美少女のほとんどは香港へ送られていたという。
このような大規模な少女誘拐団のトップが日本人女性だったという事実は、全国に衝撃を与えたようである。
三日月のお増は、まさに夜を照らす三日月のように、時代の暗部をうっすら照らす犯罪者だったと言えよう。
文:穂積昭雪(山口敏太郎事務所)