ナガサキさんは1971年、大相撲から日本プロレスに入団。日プロ崩壊後は故・ジャイアント馬場さん率いる全日本プロレスに合流するも、天龍源一郎氏とともにアメリカへ遠征。フロリダ地区をテリトリーに大暴れし、一時帰国した際には、ドリーム・マシーンのリングネームで外国人サイドの選手として試合を行っている。その後も、アメリカを主戦場にペイントレスラー、ケンドー・ナガサキとして世界のトップレスラーと抗争を展開。日本に帰国すると、新日本プロレスに参戦。メイクをしないランボー・サクラダと改名するも、すぐにケンドー・ナガサキに戻り、故・ミスター・ポーゴ氏とのペイントコンビで、IWGPタッグリーグにも参戦している。
プエルトリコでは、新日本から海外武者修行をしていた武藤敬司の面倒を見ていた。1980年代後半には、アメリカWCWでドラゴン・マスターのリングネームで、グレート・ムタとタッグを結成している。“ケンカ屋”のイメージが強いナガサキさんは、その後、大仁田厚率いるFMWに1シリーズのみ参戦すると、メガネスーパーが巨額を投資した新興団体SWSの旗揚げに参加。SWSが崩壊すると、派生団体NOWを経て大日本プロレスをグレート小鹿らと設立。当時のプロレス界では、“セメントマッチをやらせたらナガサキさんが最強”という幻想があり、現在の総合格闘技にもチャレンジしたが、結果は振るわなかった。新日本との対抗戦にも出陣したナガサキさんだったが、大日本を退団。
以降、フリーランスのレスラーとして、国内のインディーマットにスポット参戦していたが、飲食店を経営したり、体調を崩すなど、引退試合は行っていないが、現役生活はフェードアウト。一昨年は自伝も発表し、5日のイベントには、ザ・グレート・カブキ氏、キラー・カーン氏らとともに、全米でヒールレスラーとして活躍したOBたちと元気な姿を見せていただけに、今回の訃報を「信じられない」と思うファンや関係者が多いのは無理がないだろう。
全日本時代の後輩にあたる大仁田厚は「俺の全日本プロレス時代に練習でしごかれた先輩であり!レスラーは素人になめられたらあかんのや!が口癖だった。パイプ椅子で殴られたら死ぬほと痛かった。だからどんな時にも耐えられた気がします。心からご冥福をお祈りします」とナガサキさんを追悼するメッセージを発表している。
合掌
(どら増田)