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本当にあった恐怖の神隠し事件 1936年「阿部定事件」の足跡を訪ねて

 東京・神田多町。現在オフィスビルが建ち並ぶ一角で、あの阿部定は生まれ育った。すでに生家の痕跡はないが、生家跡からほど近い場所に暮らす男性が、今も定のことを記憶している。

 阿部定は1905(明治38)年5月28日生まれ。父親は腕のいい職人で、常時5〜6人の職人を雇うほど商売は繁盛していた。そんな環境で、末っ子ゆえ特に可愛がられた定であったが、次第に仲間と浅草へ繰り出したり、男が絶えないなど、立派な不良となっていた。そしてある日、見かねた父親により、
「そんなに男が好きなら芸妓にでもなれ」
と、横浜の芸妓屋へ売られてしまう。

 その後、富山、長野県飯田、大阪飛田、兵庫県丹波篠山、神戸、名古屋と流れ、15年にわたり主に体を売って生活。そんな彼女の転機となったのは、1935(昭和10)年、名古屋で学校の校長を務める人物との出会いだ。真っ当な道を歩むように諭され、のちに殺害することになる石田吉蔵が経営する料亭で働き始めたのである。

 だが、皮肉にも、淫売の道を離れたことが事件を起こすきっかけとなってしまう。定が愛人の吉蔵を殺害したのは1936(昭和11)年5月18日未明。性交中に男を扼殺し、局部を切り取ると、彼女はその血でシーツと愛人の太ももに「定、石田の吉二人キリ」と書き付けて逃走。20日になって、品川の宿に偽名で逗留しているところを逮捕された。

★1987年以降は行方知れずに…

 私は、定が事件を起こした地を訪ねてみた。

 東京都荒川区尾久。かつて尾久三業地と呼ばれたこの旧歓楽街こそ、定が事件を起こした土地である。かろうじて、事件当時のことを記憶する老女に出会い、話を聞くことができた。

「私は12〜13歳ぐらいだったかね。この通りに新聞社の車がだーっと並んじゃってね。家じゃ新聞社からの電話が鳴りっぱなし。あの頃、人殺しなんてなかったから、大変だったんだよ」

 事件は今から80年以上前のことだが、大きな衝撃を人々に与えたことがよく分かる。

 阿部定は逃走時、切断した吉蔵の男性器とともに血染めの股引やズボンを着込んでおり、逮捕後も警察によって吉蔵の衣服が押収されるのを拒んだという。妻帯者であった吉蔵との道ならぬ恋ゆえに、生かしておいたら他人の物になってしまうとも彼女は言った。純愛ゆえの殺人とも言えるだろう。

 1941(昭和16)年5月17日、恩赦により、定は栃木刑務所を模範囚として出所。警察官たちの手で特別に変名の配給書類が手配され、彼女は「吉井マサ」となった。

 出所後はドサ回りの役者、女中、浅草の小料理屋経営を経て、1971(昭和46)年に千葉県市原市のホテルに勤務していたのが確認されているが、それ以降の消息は分かっていない。

 その間、阿部定は静岡県身延山久遠寺に吉蔵の永代供養を申し出ている。毎年、吉蔵の命日には花が届いたというが、1987年(昭和62)以降は届かなったという。

 杳として行方の知れない定。一途な彼女は、最愛の人とあの世で逢瀬を重ねていることだろうか。

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