プロ入りから4、5年間が尾崎さんの一番輝いた時だ。新人王に続いて最多勝利のタイトルも獲得している。体を揺さぶり、唸りを上げる剛速球に、他球団の打者たちはキリキリ舞い、三振の山を築いていく姿は、まさに“怪童”そのもの。
しかし、好事魔多しではないが、5年間の大活躍のあと、肩痛に襲われた。マッサージや医療的な治療も受けたが、肩は元のように戻らなかった。
当時、番記者を務めていたフリージャーナリストの児玉光雄氏はこう証言する。
「口に出しませんでしたが、キャッチボールができない状態のときがありましたね。苦しそうな表情は、今でも覚えています。原因は肩の酷使ですね。トレーナーやコーチも指摘していましたが、変則投法で目いっぱい体をねじ込むように投げ込む。肩への負担も大きかったと思います」
また児玉氏は「確証があるわけではないが」としながらも“ボウリング説”を挙げた。
「尾崎さんは大のボウリング好きで、遠征先の地方でも、ボウリング場があれば行くんです。他の選手は麻雀やパチンコですが、彼はひたすらボウリング。これは逸話になりますが、ボウリングの球を豪速球ばりにレーンに転がすため、ピンが壊れたという話もあるんです。同じ右肩を使うし、ここでも酷使し過ぎたというのが、もっぱらの噂でしたね」
尾崎さんは高校を中退してプロの世界に入った。甲子園で夏に全国制覇し、その年秋の地区大会でも優勝。翌春のセンバツ出場もほぼ手中に収めていたときに、突然のプロ入り宣言となった。ドラフト会議が始まる4年前の話である。
「学校が嫌いになった」「家庭の経済的事情で、プロで早く腕試しをしたかった」など諸説が乱れ飛んだが、真相は定かではない。
高校を中退した剛腕の少年に、プロのスカウト陣が大挙して押しかけた。セ・パ両リーグ全12球団が破格値の契約金を提示しながら入団交渉に臨み、結局、6000万円(当時)の契約金で東映と契約、プロの世界に入っていった。
オールスターで一度だけ対戦した長嶋茂雄・現巨人軍終身名誉監督も「球が速かったですね。打席に立っていて、踏み込んでいくのに勇気がいりました」と報道関係者に語っている。
法政二高で柴田氏の1年後輩にあたるメジャーリーガー第1号のマッシー村上(村上雅則)氏も「マスターズリーグで顔を合わせ『元気かい』と声を掛けられたり、3年前の浪商と法政二高のOB戦(東京ドーム)で1イニング投げた姿が脳裏の焼き付いていますね」と話した。
プロ通算364試合で107勝。その怪童伝説は、永遠にファンの脳裏に刻み込まれている。合掌。