「俺はサンプルになろうとしている人間」と語る大和。武道家だった父親(日本居合道連盟理事長)は、弟子達の“お手本”になろうとした人物で、非常に厳格だったが、逆に大和は「剣一本でもプール付きの豪邸に住みたい」とアメリカンドリームを抱いており、エンターテイメント思考だったという。
しかし、武道の稽古をすればするほど、エンターテイメント思考は頭から消えてしまった。「武道始めた時は、ロックシンガーみたいなことを思ってたワケだけど、武道を突き詰めていくと、野望が消えていくんだよね。それが大間違いだった。武道が俺を育成したけど、今では武道が俺を邪魔してて、矛盾しているだよ」と告白。2年前に無双館道場を締めたきっかけでもあるという。
元々、「ガチンコ」に出演したきっかけも、武道や道場を世間に認知してもらうためだった。しかし、いつからか「稽古を繰り返して鍛錬を積む事によって、どんどん真っ当な武道家になってて。そうじゃねぇだろと。なんで俺が武道を始めたのか?」と振り返ったという。
その時に振り返ったのは、生命の危機に陥った大事故だった。大和が28歳ぐらいの頃、あるテレビ番組のキャンペーン中に頭を大ケガ。救急車で運ばれ、命も危なかったという。「寝返りをうつと脳が動く感じ。正直、『死ぬな』って思った」と当時の心境を語った。一命をとりとめたが、薬を服用しているにも関わらず、半年〜1年程は頭がフラフラだった。そして…、追い詰められた大和が手を出してしまったのが、薬物だったという。「もう、のたうち回って。どうにか苦しみから逃れるために、そこらへんにあった棒切れを掴んでガムシャラに素振りしてたら、しっくりきたんだよ」と壮絶な状況を説明。大和は無心で一本の棒切れを素振りしたことで、薬物中毒を乗り越えたという。
「50代も後半に差し掛かった時に、自分の人生を振り返ったんだよ。そしたら、そこが原点だった。そして、棒切れを振っていた最初の頃の考えも思い出したんだよ。『武道家でもプール付きの豪邸に住みたい』っていう想いを」と明かした。
「だから、今後の俺は、もっともっと自分を勘違いしていかなきゃいけないなと。俺が自ら演武しながら、『俺最高だろ!?』って売っていく。矢沢永吉的なところが大事(笑)。武道界の矢沢永吉になりたい」とブチ上げた。
2年前に道場を締めため、現在は野稽古を行っている大和。今後、世界に武士道を広めるためには、「インターネット道場をやりたい。道場は持ち歩く時代。つまり、道場をダウンロードする。そうすると、俺は野稽古やってるから、アフリカだろうが中南米だろうがいつでもどこでもやれるというのがメリット」と計画を打ち明けた。
そして、今後の目標については、「最終的には武士道でパリコレ、ミラノコレクション、ニューヨークコレクションとか、そういったファッションとのコラボレーションをやろうとしている。最終的には東コレ(東京コレクション)で世界のプレスが日本に集まって武士道をやるみたいな」と壮大なスケールの構想を描いていた。
【プロフィール】
大和龍門(やまとりゅうもん)/1956年11月26日生まれ/鹿児島県出身/無双館代表、闘剣創始者