第一次世界大戦中の1917年、横須賀軍港で戦艦筑波が突如爆発、沈没した。さらに、筑波爆沈の記憶も冷めやらぬ翌18年、今度は徳山湾に在泊中の戦艦河内が突如爆沈するという惨事が発生したのである。当然ながら、筑波と河内の爆沈事件は徹底的な原因究明が図られた。だが、河内については幹部将校をはじめとする乗員の殉職者があまりにも多く、また残骸の回収調査も思うように進まなかったため、原因の究明には至らなかった。
ただ、筑波については事件のほぼ全容が解明されると同時に責任の所在についても明らかとされたのが、海軍にとっては救いといえば救いであった。
筑波については自然発火の可能性が極めて薄く、他方で弾火薬庫の鍵は管理が非常にずさんだったために盗用が容易だったことが明らかとなった。さらに、事件当日に盗みをはたらいて上官に激しく叱責、殴打された兵が不審な行動をしていたこと、加えてその兵は過去に火薬庫の温・湿度検測に従事した経験があり、火薬庫の状況を熟知していることなどから、査問委員会はその兵が爆死を企てた結果、爆沈に至った可能性がきわめて濃厚と結論付けたのである。
調査報告を受けた海軍は、全艦艇に対し再発防止対策を徹底すると共に、発火時の対処方法についても研究を行っている。再発防止策については、まず通風、冷却の強化と注水装置の改善、そして安定性の高い発射火薬の開発を進めた。同時に火薬管理の厳密化と弾薬庫へ配置される乗員の質や忠誠心を向上させ、そしてなにより精神的に安定したものを選抜するよう方針を改めたようだが、防消火対策ともに機密事項であり、また人事考課の詳細についてもはっきりしないことが多い。
ともあれ、筑波、河内の爆沈以降は弾薬庫火災の発生が途絶え、また1942年の日向第五砲塔爆発のように、たとえ重大な事故が発生したとしても、直ちに爆沈に結びつくようなことはなくなっていた。
陸奥が爆沈するまでは…。
(続く)