欲を出さなくとも地道に仕事をし、その人柄を買われれば周りが放っておかず、「出世」の階段を昇らせてくれるものだということを実証してみせたのが、この村山富市元首相である。
時に、野党の細川護煕連立内閣誕生により政権を手放した自民党が、社会党を取り込むという“奇策”で新党さきがけ共々の「自社さ」3党連立によって政権を奪回した。その際、首相に担ぎ上げられたのが、自民党とは政策的に「水と油」だった社会党委員長の村山だった。これには国民も驚いたが、「なぜ、このオレが総理なのか」、誰あろう一番驚いたのが村山自身であった。
戦後間もなくの片山哲首相以来、実に47年ぶりの社会党からの首相。自身は「護憲」と「弱者救済」への地道な活動に徹して名誉欲、出世欲などは皆無である。しかし、「天命」ならば逃げるわけにはいかない。首相就任時、出た言葉が表題のそれであった。
村山の父親は大分県の貧しい漁師で、村山が14歳のときに他界した。その後、新聞配達などをして家計を助け、東京に出て苦学して旧制の明治大学専門部を卒業。郷里に戻って市議、県議を務め、昭和47年12月の総選挙でトップ当選で衆院議員になった。市議、県議時代から栄達を求めることなく、まとめ役としての評価、柔和にして人柄のよさ、気骨と信望の厚さを地元に買われたものであった。
首相になった村山は、表題の言葉にあるように「歴史的役割」「使命」として時代の変革への波を自覚したということか、それまでの社会党の政策を大転換させた。それまで認めなかった「自衛隊」と「安保条約」を容認した。一方で、被爆者救護法の制定、水俣病患者の全面救済を実現するなど従来の自民党政策を超えた政策にも手を染め、「社会党首相」の面目を保ってみせた。
しかし、政権とは無縁だったことから、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件という首相として最もその手腕、力量が問われる危機管理には、さすがに稚拙さが目立った。どう動くべきか、ノウハウがまったくない立場だっただけに、これはある意味、致し方なかったとも言えた。言うならば、企業の労働委員長が一足跳びに社長のポストに就いたのと同じ。社内力学などをすべてマスターするなどはいささか無理があったということである。
さて、政治という難しい「方程式」の場、天下取りの野心渦巻く多士済々を向こうに回し、村山はなぜ首相たり得たのか。一方で、人柄、信望だけで頂点への階段を昇れるほど、政治の世界は甘くない。そこが問題である。一言で言えば、「天の時、地の利、人の和」という天下取りの要諦がすべて備わったからと言えた。この3要諦を呼び込めるどうかが、僥倖の分かれ目となる。
村山の人柄、信望、そんなものが、3要諦を呼び込んだということでもあった。「天の時」とはまさに天命、「地の利」とは自民党の追い込まれた絶対絶命状態、「人の和」とは自民党の当時の実力者、後藤田正晴、梶山静六、野中広務といった人たちが一致して後ろ盾となり、社会党との政策などのすり合わせに全力を挙げたということだった。
とりわけ強く村山をサポートしたのが、「カミソリ」とその切れ味を謳われ、中曽根康弘政権の5年余を官房長官などで支え続けた後藤田だった。後藤田と気脈を通わせていた自民党ベテラン議員の証言が残っている。
「後藤田は“自社さ”政権でも、『オレが全面的にバックアップするから』と人物を信頼していた村山首班に率先して動いた。“自社さ”政権に他の野党から『“野合”にすぎない』と批判があったときも、『何が野合か。新たな変革への第一歩ではないか。ベルリンの壁が崩れた今、時代は変わったということだ』と一蹴、終始、村山政権をカバーした」
こうして村山はトレードマークの長い眉毛に温厚な人柄、それに富市の名前から来る「トンちゃん」の愛称で国民に親しまれた。一方で「自民党のカイライ」、「白眉首相でなく、眉唾首相」といった声もあったが、とにもかくにも1年半の政権をまっとうした。
同様にオレがオレがのタイプではなかった宮澤喜一元首相も、「王道論」を次のように語っている。
「権力とは自分でつかむものではなく、人に押し上げられるものだと思っている」
宮澤の「権力」という言葉は、一般企業などでの「トップ」と言い換えることもできる。無欲、地道に励む人物が「天の時、地の利、人の和」を得、それなりのポストに座ることはままあると心すべしである。
=敬称略=
■村山富市=第81代内閣総理大臣。日本社会党委員長、日本社会党が改称して発足した社会民主党の初代党首などを歴任。『戦後50周年の終戦記念日にあたって』(通称、村山談話)を発表したことで知られる。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。