全世界的傾向なのだが、土地の古老というものは鉄道の敷設を嫌うことになっている。地番の広い太子堂エリアでも、田園都市線、世田谷線とも三軒茶屋駅がその任にあたっている。三軒茶屋といえば、ハンで押したようにこう紹介される。むかしむかしの江戸時代、街道沿いに三軒の茶屋があったとさ、というのがそれで、いまは瀬戸物屋に商売替えした田中屋だけが面影を残している、と続く。界隈は東急グループの創始者五島慶太の影響下にあり、血みどろの覇権を争った西武グループの堤康次郎が、敵陣に乗り込んでデパートとスーパーの中間のようなアムス西武を建てたのは、これをもって休戦協定を締結し、以降けっして利権を侵食しないという誓いの碑(いしぶみ)代わりだったとは、それこそ古老の生き残りの話でありました。
現在、三軒茶屋一帯のランドマークとなっている煉瓦色の細身のビルは、色彩の連想からキャロット(にんじん)タワーと呼ばれ、施設に大小の演劇空間を抱えており、町にいっそうはなやかさを与えて、その貢献度は高い。本多劇場を筆頭に演劇の町を自称する下北沢と競いあっているが、小田急線の複々線化で下北沢駅は地下に沈む予定だから、いきすぎた整備の果てに人畜無害の町ができれば、そのお株を奪うことも可能だろう。そのためにはいまから、観劇後の食事どころや、ライブハウスで過熱した頭を冷やす居酒屋や喫茶店など、各種ご用意しておかなければならない。この点は下北沢に一日の長があると言わざるを得ないからだ。ついでながらそぞろ歩く細道も、あらまほしい。三軒茶屋駅から裏通りへ、「うち田」の暖簾(のれん)をくぐってみた。
突き出しが温かいあんかけで、初秋の気分にぴったり。鯖(さば)の味噌煮、金目の刺身を注文する。刺身に添えられた山葵(わさび)やカボスの景がいい。しつらえが美しく、食べて美味しい。鯖や鮎(あゆ)の押し寿司もあるようだ。寒くなれば当然、鍋となる。
若きご主人は旅が趣味らしく、訪れた地方の珍味もメニューに登場するという。お惣菜など所狭しとならべられたつまみの充実ぶりは、帰りがけにもらった「他店」のちらしで秘密が知れた。三軒茶屋のなかみち街や映画館通りの、そのまた奥にある家庭料理の店「酔鶴(よいづる)」が、“おふくろの味、三茶で30年”をうたうおかあさまの営む居酒屋。ここから直送されてくるから、一朝一夕ではできない味わいの煮物がいただける。
ちなみに、この日のわたしは下高井戸シネマで「スラムドッグ$ミリオネア」を見た帰りに1人で立ち寄った。ダニー・ボイル監督は、あいかわらずひとつのひらめきだけで一本の映画をつくってしまう傾向があるなあ、けっしてそれはよいことではないなあ、などといささか不完全燃焼の一杯だったが、麦酒、燗酒、焼酎と杯を重ねるうちにすっかり和んだ。
芝居、映画、コンサート後のクールダウンに、こういう店なら申し分ない。予算4400円。
【所】東京都世田谷区太子堂4-28-6