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松坂大輔が「怪物」だった頃

23日、中日ドラゴンズの入団テストを受け合格した松坂大輔。今年37歳を迎え、日本、そして、メジャーでも生き抜いきた男は、あくまでも現役に拘った格好だ。そんな松坂の過去「怪物」と呼ばれていた時代を振り返る。

■衝撃のプロデビュー、イチローとの対決も
 1999年、西武ライオンズの一員としてルーキーイヤーを迎えた松坂。この年、開幕三戦目の対日本ハムファイターズ戦で先発のマウンドに立ちプロデビューを飾る。当時「ビッグバン打線」と呼ばれた強力なファイターズ打線を相手に8回2失点で見事に勝利を挙げた。この試合では球速155kmを記録するなど、高卒ルーキーとは思えぬ大物ぶりを発揮する。

 さらに、開幕から約1か月後のオリックスブルーウェーブ戦でのイチローとの初対決では、3三振を奪い、オールスターゲームにも選出、早くも球界を代表する投手と認められるほどの注目を集め続けた。

■日本代表への招集
 16勝5敗・防御率2.60・奪三振151と、もはや新人として規格外の成績を残したこの年、松坂にとってもう一つ、大きな話題の中心となる出来事が訪れる。日本代表への選出だ。

 翌年に行われるシドニーオリンピックへの出場権をかけた野球日本代表の一員として、9月に行われたアジア予選に出場。当時、韓国・台湾が台頭してきており、もはやアマチュア選手のみでは日本のオリンピック出場が危ぶまれ、そのためプロ選手が初めて代表に加わり、異例だったプロ・アマ混成が結成された。その中には古田敦也や野村謙二郎といったベテランも招集される中、まだ10代だった松坂も選ばれている。

 台湾戦に先発し、古田とバッテリーを組んだ松坂は台湾打線を1点に抑え、完投勝利を挙げた。事実上、日本・韓国・台湾の3か国で二つの出場枠を争うこととなったこの大会、最も重要な一戦となった台湾との直接対決で好投、松坂が日本の五輪出場に大きく貢献した。

■再び「JAPAN」のユニフォームを
 翌年の2000年、怪物は更なる重責を担うことになる。
 シドニーオリンピック本大会にも出場を果たし、ここでもメダル獲得へ向けチームの先頭に立ち、力投を見せる。この大会でも、中村紀洋や黒木知宏といった当時の各球団の主力が選ばれた中、前年に行われた予選、そして、本大会を通して出場する唯一のプロ選手としての参加となり、プロ二年目の松坂が日本のエースであることにもはや疑いの余地はなかった。

 だが、予選リーグ初戦のアメリカ戦、韓国戦、そして、メダルを懸けた3位決定戦での韓国戦と3回の先発マウンドに立ち、力強い投球を繰り広げたものの、何れの試合も勝利に結びつけることは出来なかった。日本代表はオリンピック史上、初めてメダルを逃す結果に終わる。

■混迷の日本球界の救世主として
 オリンピックのメダル獲得はならなかったものの、それでも松坂大輔が見せた堂々たる投げっぷりは、決して無駄ではなかったはずだ。当時、セ・リーグの球団がオリンピック代表へ選手を送り込むことに反発していた中、高卒ルーキーであった松坂が日本代表の先頭に立ち、プロ・アマ混成という特殊なチームを引っ張ったといっても過言ではない。

 そして、その四年後のアテネオリンピックへ向けての日本代表、さらには、ベースボールクラシックにも2006年・2009年の二度選出され、出場している。もちろん、全て主力として、先発ローテーションの中心として獅子奮迅の投球を披露。WBCでは二度の優勝、MVPも獲得し、日本野球を国際舞台での頂点に押し上げている。まだ「侍ジャパン」と呼ばれる遥か以前から日本代表を、そして、日本の野球界を若くして支え続けた存在、それが松坂大輔だ。

昨年秋、前所属の福岡ソフトバンクホークスでのコーチ兼任という打診も受けたものの、自らの意志により打診を断りホークスを退団、その姿はかつての大物の「悪あがき」にも見えてしまう。また、ホークスでは三年間で登板はたったの一度だけ。今回のドラゴンズのテストまでの経緯は今なお、批判的な声も多い。

それでも、「怪物」と呼ばれ、幾多の夢を伝えてくれた男の最後のわがままを見届けるのも、我々ファンの役目なのではないだろうか。(佐藤文孝)

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