60歳となった現在は、横浜市中区で念願のジムを開いて練習生、選手の指導に当たっている。咽頭がんを患いながらも、人生の壮絶ファイトを真っ向勝負で戦う内藤に魅了される若者が後を絶たない。
内藤の人生は山あり谷ありだった。49年、黒人米兵と日本人女性の間に生まれた内藤は神奈川・武相高校でボクシング部に入部、すぐに頭角を表しミドル級高校チャンピオンとなった。将来を嘱望された内藤は引く手数多だったが、“家2軒分の契約金”をくれるジムを辞退して、エディ・タウンゼント氏の指導を懇願。68年、船橋ジムからプロデビューした。偉大な世界王者モハメド・アリの本名カシアス・クレイにあやかった「カシアス内藤」のリングネームでサウスポーの強打者として連勝街道を邁進した。無敗のまま70年、20歳で日本ミドル級王者に、翌71年には東洋太平洋同級王者の座を手にした。
順調な戦績に、ついに日本にも重量級の世界王者誕生かと期待されたが、敵地・韓国で柳済斗への世界初挑戦に失敗し初黒星を喫した後は精彩を欠く一方となってしまった。
当時のボクシング担当記者は述懐する。「彼は本当に優しい性格。それゆえに、格下の相手に対しても攻めきれず、攻撃の手を止めてしまったりしたんです。世界挑戦に敗れてからは下降の一途。期待の星だった内藤が、勢いのある選手のかませ犬となっていってしまいました。見ていてこれほど切ないことはなかった」。
74年に一旦引退し、4年後に電撃復帰し再び連勝し、翌年8月、東洋王座決定戦に挑んだが2回KO負けし79年末に引退した。その後は自身のジムを持つことを夢見ながらも大工、トラック運転手、水道屋、銀座のフィットネスジムのトレーナーなど職を転々として家族を養ってきた。しかし、04年末期の咽頭がんと宣告されてしまう。
「ところが、内藤はこの宣告を人生のプラスへと変えていきました。宣告されたときは声帯と舌を取り、食事は点滴という治療を提示され余命3か月を覚悟したようですが、内藤はここで攻めのファイトを選択しました。いつか自分のジムを持ち後進を指導するというエディ氏との約束を果たすためにも手術は受けずに抗がん剤と放射線治療のみを選んだのです。声が出なければ指導はできませんから。作家・沢木さんの呼びかけもあって引退後25年にして念願のジムを開設しました。オープンはエディさんの命日、ジム名にも「E&Jカシアス・ボクシングジム」としてその名を入れるこだわりようでした。エディ氏との約束、家族、たくさんの友人の真剣な支えがあって内藤は奇跡的にがんを抑圧。宣告から7年経った今も情熱的に練習生、選手を指導しています」(前出記者)
現在、ジムには下は小学低学年、上は68歳と幅広い年齢の練習生が汗を流しにくる。目的はそれぞれだが、20代後半のある青年は「最初は軽い体力づくりのつもりで入会したのですが、会長の人柄にひかれてボクシングが大好きになった。ボクサーとしては若くない年齢だけど、先日プロテストを受け無事にライセンスを取得しました。秋にはデビューしたいと思います。会長と接していると不可能なんかないと思うし、自分に自信がつく。まさに自分の人生の師です」と語る者もいる。名曲、名文学に描かれるほどの人柄は、誰の心にも響くものを持っているのだ。
また、内藤の大きな支えのひとつには長男・律樹くん(18)の存在もある。父親譲りの素質を開花させ高校3冠を達成。ロンドン五輪を目指しているが、将来的には父の果たせなかった「世界王者になる」と宣言する頼もしい存在だ。内藤自身も長男に対しては「自分の現役時より何倍も強い。絶対チャンピオンになれる」と太鼓判を押す。世界チャンピオンは親子二代の夢。息子と共に世界のベルトを掴まずしてがんに負けるわけにはいかない。