そんな城島を「扶養家族みたいなもん」と評するのは、松岡昌宏。城島をイジらせれば、彼を置いて右に出る者はいない。「イジり」の裏にはジャニーズ所属時代から優しくしてくれた城島への感謝の気持ちがあるのだ。
松岡が地元の北海道から上京して、芸能界に入ったのは12歳。城島とは、当時東京・六本木にあったテレビ朝日の第1リハーサル室で初めて会った。ジャニーズJr.たちは室内に雑に置かれたパイプ椅子にそれぞれ座っていた。遅れて7歳年上の城島が入室。バリバリの体育会系の松岡はとっさに立ち上がり、「城島さん、お疲れ様です。座ってください」とあいさつした。後輩の気遣いに城島は、「ええよ。自分、座り」と譲る。それでも、「いやっ。いいっす」と引き下がらずにいると、受け入れた城島は着席するなり、背負っていたギターを弾き始めた。松岡はその瞬間、「世の中にこんなにカッコいい人がいるんだ」と思ったという。
そんな城島がそこまで仲間に優しくなれるのは、TOKIOのメンバー全員が年下だったこと。そして、ジャニーズ入所後、赤貧で苦労が絶えなかった時期があったからだろう。
城島は上京後、合宿所に入ったのちに、一人暮らしを開始。家計はとにかくひっ迫した。奈良県に住む母から米をもらったときもあるが、まともな食事を口にできなかった。城島は徐々に痩せていき、手に吹き出物ができた。病院に行くと「栄養失調」と診断された。合宿所時代には、夏場に放置した腐った水炊きを食べて、吐いたこともある。パチンコで日銭を稼いだこともある。しかも、TOKIOとしてCDデビューした後に、だ。パチンコ屋でTOKIOのデビュー曲が流れたときは、さすがに涙が出そうになったという。
今では、TOKIOは十分すぎるほどのレギュラー番組を抱え、順風満帆だ。メンバーの中で一番遅咲きの城島は常に、ギリギリのところで生きていたのだ。最近になって突如として、25歳年下のグラドルと6月入籍説が浮上したリーダー。心の底から幸せになってほしいという願いは、国民の総意かもしれない。