田中はこの支持者の熱い思いに生気を取り戻したように、時に顔を紅潮させ、熱弁を振るったものである。筆者はこれを取材しているので、いささか長いが、以下、演説の大半を記してみる。
「新潟県の皆さん! すっかりご無沙汰しております。日頃から、私のためにご支援ご鞭撻を頂いている皆さんが、このような形で私を励まして下さることは、本当にありがたいことである。私がこんな晴れがましい席で、公の形で激励を賜ることは、今から35年前ッ、昭和14年春ッ、私が現役兵として入営したとき以来、初めてのことであります。私は心暖まるふるさとの心に接し、しみじみたる思いであります。
私が皆さんの支援を得て、内閣を組織いたしましてから、2年の月日が経とうとしております。内閣総理大臣に就任した際、『前線に向かう一兵卒のような気持ちだ』と言ったことがありますが、それはつい昨日のような気がするのであります。そして、そのときの心境は2年後の今日も、まったく変わっていないのであります。国民の皆さんと手を携えて歩み、国民のための政策を勇断をもって実行していくことは、極めて重い責任を伴うのであります。私は過ぎ来し方を顧みながら、その重みを改めて心に刻みつつ、前進を続けてまいる決意であります!
この2年間は、人類悠久の歴史の中にあっては、まばたきするほどの時間に過ぎません。しかしッ、世界が新たな転換の時代を迎えているときだけに、かつて私どもが経験したことのない激動が、相次いで起こった長い2年間であったとも言えるのであります。世界は緊張緩和の方向に進みながら、一方で新しい国際秩序の確立に、いわば産みの苦しみを味わっております。西欧先進国はいずれも転換期の困難に直面していますが、わが国も例外ではなく、物価、公害、エネルギーなどの諸問題の解決を迫られていることはご承知の通りであります」
「皆さん、私も人の子だッ。国の命運に関わる大問題を前にして、いかに国民生活の安定を図るかを思い悩み、眠られぬ夜を過ごしたことも、ままあったのであります! 昨年末には、顔面神経炎という病気にかかり、口が曲がり、皆さんにはずいぶん心配も掛けました。しかし、ご覧のように元通りになったし、健康は最良の状態にあります。
いかに難しい問題にぶつかろうとも、今すぐに『新潟へ帰りたい』などと泣き言は申しません。現在、新潟県に存在する者240万人ッ、全国に私と同じく出稼ぎに出ておられる方々260万人ッ、合計500万人もの皆さんが私とともにあることに勇気づけられ、私は新たな問題に精力的に取り組んでまいります。そして、私は理想の旗を高々と揚げつつ、当面する問題をひとつひとつ現実的に解決、国民皆さんの負託に応えてまいる決意であります。
私は先頃、56歳の誕生日を迎えました。皆さんッ。私たちの祖先が日本人の歴史の一コマを切らなかったように、私たちもこれから未来に続く民族の一コマを切ってはならないのであります。私はそういう意味で、その責任を果たさなければならないと考えているのであります。
まぁ、新潟のふるさとも、次第に青葉も増し、緑濃くなっておりましょう。鮮やかな新芽が緑色を新たにするように、私は日々、決意と希望を新たにしつつ、国政に取り組んでまいります。私は、私に与えられた公の責任を果たすため、全力投球いたします!」
演説が終わると、武道館は割れんばかりの拍手に包まれた。
一方で、田中はこの間、日中航空協定を発効、公布させるなどいくつかの政策推進にも全力を挙げていた。中で、特筆できることに教員人材確保法の成立があった。田中は日頃、「大学の教授より、むしろ小学校の先生を大事にしなければならない。小学校の先生が白紙の子供を教えるのだから、その教育こそ国の大本であり、幼少時の教育こそ人材形成に大きな影響を及ぼす」との考えを持っていた。その実現のために、全国の公立の小・中学校教諭の給与を大幅にアップさせ、海外の知識などを広く求める必要性から、同じく教諭の海外派遣制度をも設けたのであった。
そうしたさなかの9月、田中のもとに“寝耳に水”、月刊誌『文藝春秋』が田中の「金脈」と女性スキャンダルを記事として掲載するとの情報が飛び込んできた。田中の周辺は、一気にざわめき始めた。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。