慶応義塾大学三田キャンパスの足下に、木造二階建ての面構えのいい居酒屋がある。入り口の両側に、それぞれ一畳はあろうかと思われる藍染め地が、2枚張られている。それが目印。1枚は「酒処」、1枚は屋号「芝 三田 津國屋」。それぞれ白く染め抜かれ、折からの風にあおられて、生きのいい魚のようにばたついている。
福沢諭吉が作った江戸随一の英学私塾が、慶応4年(1868)に芝に移転して、慶応義塾。同年、元号が明治に改まり、そろそろ津國屋に酒林が下がる。ここはそのむかし酒屋だった。
諸国の酒は半紙に墨書され、出身や特性は赤い墨汁(こうとしか言いようのないあの朱文字)で添え書きされている。ここでは居酒屋にありがちな雑多さは嫌われて、それらはあくまで整然と貼られ、代々そのような商いをしてきたのか、半紙もまた清浄である。
誰何(すいか)される。予約ではない、と応じる。ならば、としかるべき卓へ導かれる。男2人が頬を緩める、至上の瞬間がきた。まず「千代の光」をそう言う。相方は「酔鯨」から始めるようだ。いずれも特製の海の色をしたガラスのお銚子に移して供される。次に「加賀の庄」をそう言う。その次の「月に雁」が大当たりだったので、すかさず追加。秋田の酒であることを朱文字に教わる。 あては、きうり漬け、飛び魚の刺身、あじす(鯵酢)、メンチカツ、鯛頭。いずれも外れはなし。
腹もくちくなり、互いに顔に赤い墨汁が差してきたので、そろそろ上がろうとすると、女将が「本日のお品書き」というコースメニューを持ってきた。九品で2400円なのだという。
今夜の勘定は2人で6000円だったので、コースでもよかったようなものだが後の祭り。このコースを10組以上のお客に時間差で出していくのは手間だろう。料理は注文されてもすぐ出来ない場合がある、と釘をさされたのはそういうことだったのかと納得。後ろ髪引かれた「本日のお品書き」とは、
一、前菜 いか薩摩揚げと厚焼き卵の盛り合わせ
一、お刺身 旬の刺身盛り合わせ
一、サラダ 厚揚げと水菜のサラダ
一、煮物 ふろふき大根帆立貝のあんかけ
一、オーブン焼き 帆立貝のガーリック風味オーブン焼き
一、揚げ物 鳥唐揚げとメンチカツの盛り合わせ
一、本日の一品 鳥もも肉の照り焼き 温野菜添え
一、お食事 オムソバ
一、香の物 香の物の盛り合わせ
なんとも、堪(たま)りませんな。隣の卓では慶応義塾大学国際センターの「アジア・オセアニア文化研究所」(そんなものがあるかどうか知りませんが)帰りとおぼしき、日本人および異国の方々が男女織り交ぜて、まずは前菜からおいしそうに食べてらっしゃいました。
女将の後出しはまだ続いて、昼の定食もおさおさ怠りない物を供しているのでよしなにという。そうでしょう、そうでしょう。そりゃ、そうでしょうよ。
予算3000円
東京都港区三田2-16-8