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2010年に突如ブレイク! アカシックリーダー・中津川昴氏独占ロング・インタビュー(2)

中津川…中津川昴氏
山口…オカルト作家・山口敏太郎氏
編集…リアルライブ編集部

【SFサークルで大活躍しすぎて、大学を留年!】

 編集 中学・高校くらいから将来何になりたいなと、そろそろ出てくる頃だと思いますが、その頃何になりたいと思っていましたか?

 中津川 中学で小説家になりたいって言ったんですよ。

 編集 どういう作家になりたいと思っていたのですか?

 中津川 純文学ですね。高校・大学の時は純文学ばっかり読んでましたね。途中からSF関係に移っていって、SFとかアニメとかのオタクの方に走り始めたんですけどね。中学卒業までは漫画はダメだって家で言われてたんです。だから一回も読んだことなくて。高校三年まで一度も読んだことがなかったんです。

 だけど卒業する最後の試験の1週間くらい前に、次男が『めぞん一刻』を全巻持ってきたんですよ。僕はそういうのに対して免疫持ってなかったために、1冊読み始めたら止まらなくなって。で、カルチャーショックを受けて、こんなものがあったんだって、ショックを受けて。その時の期末の試験を落としたんですよ。人生で初めての赤点が、漫画によって。で、当時の先生方全員びっくりして「お前どうした」って。

 なぜかというと僕は高校1年から3年まで通してずっとトップだったんです。教科一つ落としたんですけど、周りの先生がそれを信じないんですよ。トップの奴が、赤点で15点とか取るわけないじゃないですか? ありえないんですけど、一つだけ赤点を取ってしまったんです。通常なら僕は100点取るところなんですよ。それで、先生たちは熱出したのか、風邪ひいたのかって。先生は生徒の成績をいきなり落としたくないじゃないですか? まさか漫画でなんて言えませんよ。だから温情判決で単位だけはぎりぎりもらえました(笑)。僕当時、生徒会長もやってましたし、推薦でもう大学進学も決まってましたからね。

 当時『めぞん一刻』と、高校出る時に『ドラゴンボール』のアニメが始まって。で、大学になってその両方にギリギリと攻め込まれていって、ほんとはもっと勉強をしたはずだったのに(笑)。そうでない自分ができていったんです。

 編集 大学はどちらでしたっけ?

 中津川 新潟の長岡です。

 編集 大学のあった新潟は岩手と比べてどうでしたか?

 中津川 寒いですよ、豪雪地帯から豪雪地帯に行って、乾燥した雪から、重たい雪にか変わっただけでしたね。

 土地の広さは一緒なんですけど、浜までバイクで40分くらいで行けたので、海の近くに行って遊んでましたね。

 あとはサークルの部員たちと色んな所に行きましたね。それでSF研究会というのに入ってたんですが、その部員たちを全員集めて、ミステリーツアーをやってたんです。車借りてきて、全員で運転して、キャンプ道具とか、いろんな取材道具とかかき集めて、歴史的に危険な場所に行こうと。殺人現場だとか自殺の家だとか、古墳とか、キリストの墓とか、あとは恐山とか、行ってみようと。そこで最もやっちゃいけない事をやってみようと、そういう事をいっぱいやったんですよ。

 編集 何か祟りはありましたか?

 中津川 ありましたね。恐山に行って、積んである石を友達が足で崩した。風車が回っているのに崩してしまったという。その友達は帰ってきて、車の前輪が運転中にとれて(笑)。こけましたね。

 そういう感じでミステリーツアーを年に1〜2回やって、怖い所のすぐ近くでキャンプをして、みんなで食事作ったりとか、テントの中で朝までアニソンカラオケとか当時やってたんですよ。で、僕は僕で学生課に行って、当時VHSのビデオカメラを借りてきて、それで全編を映してたんですよ。それで、撮影とかもやってたし、ツアー自体もやってたし、幽霊とかUFOとか超常現象見たさに全員で15〜6人で行きました。あとは、結構怖かったのは、あさま山荘(笑)。あさま山荘の山を登って、その山荘の近くで泊まったんですよ。流石にキャンプは怖かったですね。

 編集 ですよね。あさま山荘っていうと、山の中で粛清された隊員とか。そのイメージですよね?

 中津川 いっぱい「いる」んですよ。その辺に。で、UFO探知機と幽霊探知機、両方持って行って、スイッチを入れると…

 編集 UFO探知機というのがあるのですね? 自作ですか?

 中津川 自作ですよ。そういう電気回路を。僕、電気回路の工作も上手かったので。

 編集 なるほど。そんな風に、SFとかキャンプ三昧で過ごされたわけですね。

 中津川 ええ、そうです。ただアニメとか映画の撮影とかもやっていたし、脚本書いてみんなと色々やったりとか。当時まだ8mmフィルムというのがあったんで、フィルムで撮って繋ぎ合わせて、SFXみたいな事をやってみたりとか。あとはVHSのビデオテープが当時主流だったので、それを使って色んな事をやっていました。

 編集 なるほど、映像の方に行くのですね。

 中津川 で、色んな切り貼りをやって1本作って、仲間内でそういうのを見てガハハと。あとは、当時僕がやっていた新潟SFコンベンションというのがありまして。

 編集 あ、もうイベントとかやっていたのですね。

 中津川 やっていました。大学の1年からもうやってたので。ディレクションとか、そういう細かい作業から全部自分一人でやるわけですよ。

 編集 もう今の中津川さんの素材が出来上がって…?

 中津川 そうそう。だから大学時代が物凄く密度が高かったです。留年するくらいやってたので。そっちの方が楽しくなってしまって。

 SFコンベンションでは、作家を沢山集めるんですよ。作家を集めて、サイン会や講演会をやらせたりとか。あとは作家の周りでファンが出来るので、ファンを集めて、イベント沢山やるんですよ。当時から既にコンベンションスタイルの中には、単に公益化するだけではつまらなくなるので、講演以外の、ファンが楽しめる部屋をホテルの中にいっぱい設けるために、ホテル丸々借り切っちゃうんですよ。

 編集 凄い!

 中津川 その各部屋でファンのイベントをやっちゃうので、その中の一環で、自主制作映画上映会みたいなのもあったんですよ。まだそんなにビデオが発展してなくて、まだまだ8mmを出せる、とか、VHSを流せる程度の物しかなかったので。大学3年くらいで部長になって、それからもう、自分のやりたい企画をバンバンやりまくりましたね。

 中津川 それと当時、フジテレビの長岡支局でバイトしていたんですよ。その時にNSTっていう局で、そこでお天気予報を打つ仕事をずーっとやってたんです。

 それで、大学では留年を2回してるんですよ。遊びすぎて単位落として。その後就職活動を始めたんですけど、工業系の大学の人たちって殆ど活動しないんですよ。就職活動の時、先輩が研究室を紹介してくれるので、その人に乗っかっちゃうと、要は数珠繋ぎでその会社に入れちゃうんですよ。あとは推薦っていう枠が沢山あったので、学校の先生が推してくれるんですよ。プッシュしてくれる。それ以外に行こうとすると、凄い怒られたんですよ。僕は教授の声が掛かった所に行きたくないから、自分で探してきた所に入りました。

(つづく)

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