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「時代」を彩った男と女・あの人は今 元サッカー選手・奥寺康彦さん

 実業団中心だったサッカー日本リーグがJリーグに代わってプロリーグになると同時にプロ選手が生まれた。だが、そのプロ第1号選手は「日本人初のプロサッカー選手」と紹介される奥寺康彦である。

 奥寺は、日本リーグの古河電工(現・ジェフユナイテッド市原)に所属していた1970年代に世界最高峰のサッカーリーグ、ドイツ・ブンデスリーグで活躍した。77年から80年がFCケルン、80年から81年がベルタ・ベルリン、81年から86年がヴェルダー・ブレーメンの3チームで合計9年間に及んだ。
 とくに奥寺の正確無比で安定したプレースタイルはドイツのファンから「東洋のコンピューター」と呼ばれた。そして、ヨーロッパサッカー連盟主催の国際大会にはアジア人としては最高の6回出場。78年〜79年シーズンのチャンピオンリーグではアジア人としてリーグ史上初のゴールを記録した。

 奥寺は父親の転勤のため小学4年の時、横浜市に転住。中学からサッカーを始め、相模工大付高(現・湘南工科付高)から70年に古河に所属。転機となったのは76年、古河がブラジルに工場を持ったことだった。奥寺はクラブ「ブラジル・パルメイラス」に2カ月間留学して急成長を遂げ、ユース代表を経て日本代表に選出された。76年に開催された国際大会(ムルデカ大会)に出場、得点王となった。また古河は日本リーグと天皇杯に優勝して2冠に輝いた。翌77年10月、奥寺はドイツへ渡り、FCケルンと契約した。
 86年に帰国、古巣の古河に復帰。88年のソウル五輪の代表を目指したが、87年と88年のシーズンを最後に引退した。
 引退後は、96年にジェフ市原の前身「東日本JR古河クラブ」の監督に就任したが、成績不振のため1年で退任。その後、99年から横浜FCのゼネラルマネージャーを経て、2000年より代表者を務めている。

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