この一例が象徴するように、“ジャニーズ事務所の長男”近藤は、長きにわたる芸能生活で幾多のラッキーを手にし、逸話や伝説、記録や実績を重ねつづけた。
デビューしたのは、弱冠15歳。79年に『3年B組金八先生』(TBS系)でブラウン管デビューすると同時に、田原俊彦、野村義男と“たのきんトリオ”を結成。このころはまだ、声変わりさえしていなかった。そのわずか2年後、後楽園ホールで、たのきんコンサートを開催。現在のジャニーズライブのマストである花火、バイク、ローラースケート、神輿、リフト、イリュージョンなどを、この時代に取り入れた。
感嘆すべきは、これらがまだ歌手デビュー前ということだ。たのきんフィーバーは日増しに激化し、当時暮らしていた東京・六本木のジャニーズ寮の付近には連日連夜、女性ファンが殺到。付近住民からのクレームが相次いだため、一時期、六本木の土地が下落したほどだ。
翌80年に『スニーカーぶる〜す』でデビューするや、いきなり105万枚を売り上げてミリオン達成。ジャニーズ初の快挙となり、オリコン史上初のデビューシングル初登場第1位の記録を刻んだ。
翌81年に発売された4thシングル『ギンギラギンにさりげなく』は、直木賞作家の伊集院静が作詞を手がけ、賞レースの新人賞を総なめ。マルベル堂のブロマイド売り上げでは、男性部門でトップに輝いた。さらに、『NHK紅白歌合戦』にも初出場した。
デビューから3年弱で650万枚以上のシングルセールスを樹立し、二十歳の誕生日ファンイベントは、まさかの日本武道館を貸しきり。その年、ジャニーズ初の香港公演を成功させた。21歳のときには、舞台『森の石松』で史上最年少座長を記録(当時)。24歳で再び伊集院とタッグを組み、『愚か者』を発表すると、『日本レコード大賞』の大賞を初受賞。またもや、ジャニーズ初の偉業だった。
ジャニーズの礎であり、アラフィフ男の鑑である近藤。ジャニーズ最年長の51歳になってもなおストイックなその姿勢は、後輩が目指すべく指針だ。記念月である12月、“紅白”への返り咲きという形でメモリアルを締めくくる可能性も、ゼロではなさそう!?