「球団は松坂の復帰をサポートするつもりだったのは間違いありません。ただ、支配下登録からいったん外れてほしい、と」(スポーツ紙記者)
前例はある。2011年から3年間、斉藤和巳が支配下登録を外れ、「リハビリ担当コーチ」の肩書で復活を目指していた。同様の手順が松坂に提示され、それを受け入れられなかったというわけだ。
「松坂が『復活』を目指しているのは本当です。リハビリをいつも続けているのはそのためで、でなければ、とっくの昔に心が折れてますよ」(前出・同)
工藤公康監督や一軍ナインがシリーズ第6戦に臨む前の午前中、松坂は筑後のファーム施設を訪ね、ロッカーなど荷物を整理した。他選手に退団を報告したかどうかは不明、チーム関係者が施設に到着した正午ころには、荷物は完全になくなっていたそうだ。
「松坂は3年12億円の破格契約でソフトバンクに迎えられました。4億円の年俸(推定)は球団トップ、12球団全体で見ても3位。在籍した3年間でたった1イニングしか投げていません。今季は右肩の故障で二軍戦にも投げていません。後ろめたさもあったのでしょう」(プロ野球解説者)
獲得に動く球団がなければ、記録上では現役引退となる。いったん引退して復帰した例は過去にもあるが、来季は38歳、3年間未勝利ともなれば、獲得に動く球団はまず現れないだろう。こんな声も聞かれた。
「松坂は球団トップの年俸。二軍戦にも投げていない投手がこれだけもらっているとなれば、日本一を奪回した今オフ、選手の契約更改は本当に青天井となってしまいます。昇給幅に不満を抱く選手が出たら、球団は反論できないでしょう」(球界関係者)
おそらく、こうした動きを球団側も察していたのだろう。3年契約が切れる今オフ、王貞治球団会長は一部メディアの取材に応じ、「若手のお手本」と松坂を称賛していた。不満分子への牽制もかねての発言だったと思われる。だが、先の関係者によれば、松坂は退団した今日まで、「ずっとお客さんだった」という。
「ホークスのユニフォームを着て以来、そのほとんどをリハビリに費やしていました。二軍でも通常選手と離れての別メニューでの練習ばかりでしたし、最後までチームに馴染むことができなかった」(同)
残酷な言い方になるが、松坂が右肩を故障させた遠因は“才能”との見方もされている。メジャーリーグに渡ったあと、アメリカ独特の硬いマウンドが合わず、投球フォームを崩してしまった。マウンドの土が硬いため、スパイクの歯が刺さらず、踏み出したほうの左足が滑る。その影響で投球フォームを崩し、右肩への負荷となった。練習にも投球数制限のある当時のレッドソックスのやり方も合わなかったという。
「松坂は高校時代から投球練習をたくさんやって、肩の調整をしてきました」(前出・プロ野球解説者)
だが、こうも考えられる。米球場のマウンドが硬いのは、今に始まった話ではない。ダルビッシュ、田中将大、前田健太らはそのことをボヤいたことはあるか? 松坂の翌年の08年に渡米した黒田博樹氏は黙々と投げ続け、広島帰還後もチームを牽引してみせた。
「高校時代からその才能を高く評価されていましたが、弱点が2つありました。一つは食生活に関する節制ができない精神的な弱さ、もう一つは股関節が固いこと。下半身を作り直す前にプロで結果が出てしまったので、2つ目の弱点克服につとめようとしなかったんです。そのツケが出たんです」(関係者)
股関節の固さを克服していれば、メジャーリーグの硬いマウンドにも適応できたはず。若手時代に自身の弱点を見直す時間がなかったとすれば、それは「才能」が邪魔をしたのだろう。
天才、怪物、超高校級。ポジションは違うが、松坂の失敗は清宮幸太郎にも聞かせておきたい話である。