5年間の大活躍の後は肩痛に泣かされ、29歳の若さで現役を引退。
その後は、レストラン経営、スポーツ関係の仕事に就き、現在は少年野球の指導、マスターズリーグの「東京ドリームス」に参加している。
怪童伝説は数々ある。高校時代の3度にわたる法政二高のエース・柴田勲(元巨人)氏との一騎打ちは、高校野球史上に残る伝説になっている。法政二高の3連覇がかかる1961年夏、準決勝で激突した尾崎氏は、延長11回、4対2で下し、三度目の正直で優勝した。
そんな甲子園の大ヒーローが高校2年で中退、プロ入りとあって大争奪戦が勃発。当時としては破格の契約金6000万円は大きな話題になった。
「あの時代にスピードガンがあったら、尾崎は160キロを出していたのではないか」(球界OB)といわれ、そのほとんどがストレートだった。
176センチと上背はないが、体重83キロで胸板が分厚く、ゴリラのようなごつい体だった。上体を大きく揺らす、ロッキングモーションを繰り返すからなおさらそのイメージが強い。だが、この投法は禁止を通達される騒動に発展した。
それでも20勝9敗、防御率2.42で新人王に輝き、東映の球団史上初のリーグ優勝と日本一にも貢献している。
東映在籍12年で通算107勝を上げたが、そのうちの98勝は最初の5年間で達成。しかし、67年からは右肩痛によって不振に陥り、野球人生は暗転する。
投手寿命を縮めた右肩痛は酷使だけでなく、ボウリング元凶説がある。当時の番記者が回想する。
「なにしろボウリングが好きで、ボウリング場通いをしていた。野球の剛速球並みに投げるから、ピンが壊れてしまったこともあった。でも、太く、短くは尾崎らしいと思った」と。これまた怪童番外伝説だ。
怪童・尾崎行雄をプロ野球ファンに対し強烈に植え付けたのは、大毎オリオンズ相手のデビュー戦だった。新装された神宮球場で迎えた、62年4月8日の開幕第2戦。ダブルヘッダーの第1試合だった。3対3の延長10回。マウンドに立った尾崎は「ミサイル打線」の中核の葛城を凡打に打ち取ると、榎本、山内から2者連続三振を奪い、鮮烈なデビューを飾った。しかも、その裏に決勝点が入り、サヨナラ勝ち。記念すべきプロ入り1勝目をあげたのだ。
甲子園の宿命のライバルだった、同じルーキーの巨人・柴田勲投手と明暗を分けたデビュー戦でもあった。伝統の一戦、阪神との、同じく開幕第2戦に先発した柴田氏はKOされ、「投手失格」のらく印を押されて野手に転向することになったからだ。「柴田はまだいいよ。開幕第2戦の阪神戦に先発してから、野手に転向したんだから。オレなんかセンバツ優勝投手といってもプロで1球も投げないうちに投手失格だから」とは王貞治氏の弁。17歳・尾崎氏のデビュー戦が際立つ。