徳次の招待を欣々はとても喜んでくれた。徳次は2階の座敷を欣々のために用意した。しばらくは徳次や琴と、あるいは一人で出かけたり、徳次との夕食時の昔話を楽しんだりしていたが、次第に口数が少なくなっていった。
ある日、今晩は食べたくないから、と夕飯を取らずに2階に上がった欣々が気になって徳次が様子を見に行ってみると、欣々は左手首を切って、すでに息絶えていた。葬儀には江木家からの弔問客はなく、夫亡き後の欣々の寂しさが偲ばれた。徳次はもっと早く呼び寄せればよかったと悔やんだ。
欣々の葬儀の後、徳次は2年以上にわたった日本文具製造との裁判を終わらせ、示談にすることにした。これ以上の時間と労力を割くのは無駄に思えたのだ。
昭和5(1930)年1月11日に金解禁が断行され、日本の不況は深刻さを増して行った。そんな中でも、大正15(1926)年8月に日本放送協会(NHK)が成立するとラジオ放送は急速に発展した。同年12月25日、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の高柳健次郎助教授が世界で初めて、ブラウン管による電送・受像に成功。5年後の昭和5(1930)年5月、昭和天皇の天覧実験を行った翌日、徳次は高柳にハガキを送った。内容は“将来、テレビジョンの時代が来ると確信している。開発のために卒業生を紹介してほしい”というものだった。
しばらくして、浜松高等工業高校電機科主任の中島教授が徳次を訪ねて来た。不況続きで大変な就職難の時代だったから、求人は学校としても有難かった。中島は、たとえ小さな町工場でも将来性があれば学生を紹介しようと考えていた。
中島は早川金属工業研究所の設備や技術のレベルが、考えていたものよりずっと高いことに驚いた。また、徳次の人柄や研究姿勢に感銘を受け、卒業生を紹介することにした。やがて入社したのが、第二次大戦後、初の国産テレビを開発した笹尾三郎だ。