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60代横綱「双羽黒」北尾光司氏急逝 狂瀾怒濤の55年史

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提供:週刊実話

 「こんなちゃんこが食えるか」。大相撲第60代横綱北尾光司氏が、ちゃんこの味付けをめぐって師匠と激しく衝突し、24歳4カ月で廃業することになる。その引き金となったのがこの一言だった。

 引退後、プロレスラーとしても活躍したが、2月10日に慢性腎不全のため亡くなっていたことが明らかになった。まだ55歳という若さだった。

 北尾さんは中学卒業時点で195センチの長身を誇り、1979年に“金の卵”として角界に入門。師匠の立浪親方(元関脇羽黒山)に、“過保護”に育てられた。

 「兄弟子たちが少し厳しく指導すると、親方はその兄弟子を叱っていたそうです。おかげで北尾は、自分の思うようにいかないと、すぐに『イタイ、イタイ』と言って稽古場や部屋を逃げ出すようになりました」(スポーツ紙相撲担当記者)

 猛稽古とは無縁だったにもかかわらず、初土俵から7年後に大関に昇進。そのわずか4場所後には横綱へと駆け上がり、四股名を「双羽黒」に改めた。

 だが、横綱昇進後も肝心なところで精神的な甘さが出て、なかなか優勝できない。その一方で、付け人をエアガンで撃つなど、問題行動が目立つようになり、'87年12月に「こんなちゃんこ食えるか」の問題発言騒動で立浪親方と衝突。仲裁に入ろうとした女将さんを突き飛ばして部屋を飛び出したのだ。

 「立浪親方は、この女将さんへの暴力に激怒し、ただちに相撲協会に廃業届を提出。ほとぼりが冷めたら部屋に戻るつもりでいた北尾さんは戻る場所を失い、引退せざるを得なくなったのです。24歳4カ月のことでした」(同)

 引退後は「スポーツ冒険家」という肩書でタレント活動を始め、廃業から2年後にはプロレスラーに転向。

 「プロレスの基本もできていないのに、デビュー戦でハルク・ホーガンばりのパフォーマンスを披露。ファンからブーイングを浴び続けると、徐々に試合欠場が多くなり、しまいには現場責任者だった長州力を怒らせ、半年もたずに新日本プロレスを追われています」(元プロレス誌記者)

 その後もプロレスラーや格闘家として活動を続けたが、いずれも大成することなく'98年に引退を表明。'13年からは腎臓を患い、闘病生活を送っていたという。

 優勝を31回している千代の富士も「もし双羽黒がいたら、こんなに優勝できなかった」と述懐している…。合掌。

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