社会部記者時代は大相撲が始まると、その期間中だけは相撲記者としてかり出され、紙面を大相撲で飾った。死去する2カ月前までは、本紙スポーツ面に「角界彦左が往く」を毎週水曜日に連載、4月11日発行号が絶筆となった。
昭和30年頃、一般紙はどこも川柳全盛時代。運動部長となった針ケ谷さんは、その頃はスポーツ紙もやっていない「相撲川柳」で勝敗を予想したり、「お相撲さん ななくせ足癖」など奇抜な記事を掲載、相撲ファンから喝采を浴びたりした。
本紙に運動部を新設したのは東京オリンピックの4年前となる昭和34年。27歳で初代運動部長となり、ますます腕に磨きがかかった。夕刊紙にユニークな企画をとり入れ、力道山のプロレスを紙面化したり、スポーツ・ヒーロー物語を朝入れ原稿で挿し絵つきの小説にしたりして紙面を飾った。アイディア豊富な一種の奇人でもあった。
針ケ谷相撲クラブを創設したのは昭和55年頃で、最初は大相撲の木瀬部屋に道場を構えた。自ら師範として文字どおりハダカ一貫からの熱血指導。のちに稽古場は現在の東洋大学相撲場に移り、会員は200人を数えるまでになっている。若貴時代を築いた、わんぱく相撲では「東に針ケ谷クラブあり」で、卒業生はその後、中学、高校、大学、社会人として活躍、数多くの全国大会で優勝者を輩出している。
相撲ジャーナリストとしての著書も多く、雑誌「相撲」「大相撲」では平成18年10月号までは常連執筆者だった。若貴を取材した単行本「相撲親子鷹物語」もある。晩年は東京都相撲連盟副会長、財団法人日本相撲協会指導員でもあった。平成19年初場所では三役選考委員も任命され、相撲界とは切っても切れない人物だった。本人は1カ月入院して夏場所から復帰するつもりであった。本当に惜しい人を亡くしたものだ。ご冥福を祈ってやまない。