秀勝(AKIRA)を亡くした江の悲しみは深く、出産したばかりの娘を抱くこともできなかった。江を励ますために訪れた初(水川あさみ)にも「姉様には私の気持ちが分かりませぬ」と冷たい。それどころか、「私は死にとうございます」とまで言う。
これまでの日本社会では耐え忍ぶことが美徳とされ、悲劇の当事者が悲しみを表明することが抑圧される傾向があった。夫が亡くなったからこそ、幼い娘を育てるために奮起することが期待された。古いタイプの視聴者は悲しみをこらえて前に進む姿に同情するのであって、江のように自分の悲しみを前面に出すならば同情よりも反感が生じてしまう。江は慰める人の気持ちを省みないワガママと映ることになる。
しかし、悲しみの表明を抑圧し、頑張ることを強制する日本社会の雰囲気が、実際に苦しむ人々を一層苦しめていることも事実である。上野は所属事務所アミューズのウェブサイト上で東日本大震災の被災者に以下のメッセージを寄せている。
「みんなの前では
前向きにみせているけど
悲しみを出せる場所がないから涙を流すことができないだけ(中略)
早く辛さを自分の外へいっぱい出せる日が来ますように
また自分の弱さを見せられますように」
ここでは悲しい体験をした被災者が悲しみを表明できる環境になることを願っている。この点で自らの悲しみに沈む江は、悲しみの表明を我慢しなくていいという社会へのメッセージになる。
主人公に「死にたい」とまで口にさせることは、自殺が社会問題になっている中で大胆であるが、愛に生きる女性の気持ちを純化させている。江らの母の市も娘を残して北ノ庄城で自害しており、シナリオは一貫している。
『江』は2008年の大河ドラマ『篤姫』と同じく田渕久美子が脚本を担当する。しかし、同じ人物が脚本家ながら、『篤姫』は支持しても『江』は受け入れられないという声は意外なほど多い。『篤姫』の主人公・篤姫は現実に生きていた。一橋慶喜を将軍にするという島津斉彬の願いを実現するという目的で御台所になり、その後は自らの意思で徳川家の女として生きる道を選択した。篤姫の思い通りにならないことも多かったが、現実と格闘するリアリティが存在した。
これに対して『江』には現実を遊離したところがある。戦のない世の中にしたいという主人公の大目的は明確であるが、具体的な行動計画に落とし込めていない。それ故に秀吉の暴挙に対して江が正論で批判しても、世間知らずな姫君のワガママに映ってしまう面がある。そこが『江』への不満になるが、愛に生きる女性のメルヘンを楽しむものである。たとえば市が死ぬ間際で想起した人物は現在の夫の柴田勝家ではなく、最初の夫の浅井長政であった。
『篤姫』の成功が『江』でも同じ脚本家になった要因であるが、脚本家としては冒険や挑戦したいこともあるだろう。現実離れした女性の感覚を、どこまで時代劇で表現するかに注目である。
(林田力)