このように、根岸競馬は施設や組織の整備とともに、社団法人に移行する直前の1905年(明治38年)末、政府が馬の改良という面から馬券発売を黙許する方針を決めたこともあって、世間の人気を集めていった。
これらの反響を受け、東京では東京競馬会が池上本門寺近くに池上競馬場を、さらに翌年には目黒競馬場を建設して1906年秋には4日間の開催を行った。ほかにも、全国各地で横浜をモデルとした競馬が盛んに催されるようになり、翌1907(明治40)年7月には、川崎でも京浜競馬倶楽部が4日間の競馬を催している(同倶楽部は3年後に、東京競馬会と合併、川崎の馬場は1933年=昭和8年秋、現在の府中に移転)。
根岸からノウハウを教わってスタートした全国十数カ所の競馬はどこも賭けの人気で繁盛をみせた。一方で、その馬券熱が高まるつれて競馬場内の騒ぎやトラブルが増えていく。大もとの根岸競馬場でも、1907年秋季競馬で「緑号事件」というのが起きた。
「緑」という馬が先頭でゴールインしたが、その騎手が、規定の負担重量を欠いていたことが分かり、失格と判定された。そのため、観客が非難、投石騒ぎとなり、警察がこれを解散させる一幕となった。この事件は根岸競馬の公正さを印象づけることとなったが、トラブルの頻発に、世論の批判も高まり、新聞も悪影響を書き立てた。
※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬