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【バラエティ黄金時代】ロンブー究極のバラエティの原点『あなあきロンドンブーツ』

 莫大な資金とド派手な仕掛けで、観る者をあっと驚かせたのが、昭和から平成初期のドッキリ企画なら、それを進化させた芸人は、ロンドンブーツ1号2号だろう。シンボル的番組は、今なお固定ファンが多い『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)。バラエティの定番である落とし穴を広範囲にわたって作るのはもちろん、前代未聞のドッキリを、断続的に生みだしていったからだ。

 タネ明かしまでに数か月の時間を費やしたり、海外まで追っかけたり。さらには、一軒家まで建ててしまったり、複数名のタレントをいっせいに引っかけたり。青木さやか、狩野英孝にいたっては、ネタばらしで巨大アリーナを貸しきって、数千人のエキストラを雇う、超大規模なドッキリを成功させている。

 これらを具現化した演出家のテレビ朝日・加地倫三さんは、あの『アメトーーク』(同局)を手がけていることでも有名。そんな彼と、“イジりのプロ”田村淳が手を組むことによって、同番組のドッキリはどんどん過激に、巧妙に、ずる賢さを増していった。その原点というべき番組が、およそ19年前に存在した。『あなあきロンドンブーツ』(同局)、ロンブー初の冠番組だ。

 デビューして2年がたったこのころ、淳は22歳で、田村亮は24歳。出演していた東京・銀座7丁目劇場では、人気投票トップをキープ。ニッポン放送『オールナイトニッポン』(2部)のメインパーソナリティを務め、まさに飛ぶ鳥落とす勢いのままゲットしたのが、同番組だ。若手芸人は、体を張ってナンボという時代。ロンブーも、スタッフに言われるがまま、命を削るチャレンジ企画に挑戦させられた。

 まずは、炎で燃えさかるブーメランをキャッチする企画。もちろん、防火手袋は装着しているが、顔面を保護するプロテクターやマスクなどは、いっさいなし。服も普段着だ。31投目にして、ようやく亮がキャッチしたが、企画はその後、エスカレートしていった。

 1か月後には、燃えたぎる野球ボールを、頭に乗せた鉄製のカゴでキャッチする内容にリニューアル。バッターは、亮。キャッチャーは、淳。野球のユニフォームにも、バット、グローブにも、防火加工はされていない。火の粉をもろにかぶる危険と背中合わせのなか、淳は見事にキャッチした。だが、その瞬間、ボールは淳の頭の上で打ち上げ花火のごとく、火花をあげた。淳はこのことを、事前に聞かされていなかった。

 さらにその翌月には、「試合」という最終形態に行き着いた。四面が火で覆われるなか、火がついた竹刀でマジ剣道対決する運びになったのだ。ただならぬ緊張感が支配するなか、試合が開始。まもなくして、淳の小手に引火するというアクシデントに見舞われた。「熱っ、熱っ」と消火しようと手を振っていると、周囲を囲んでいたおよそ2,000発の爆竹が、次々と爆発した。ラストは、何も知らない亮の防着の背面に、淳が着火。すると、亮の身体から爆竹がパチパチと音をたて、まさに、身を粉にしたオチが待ち受けていた。

 現在のテレ朝の十八番といえる“究極のバラエティ作り”は、このころ、ロンブーとともに形成されていったのかもしれない。淳は同番組で、何度もその犠牲になっている。

 あるときは、企画内容を聞かされないままタイに連れていかされ、あのレオナルド・ディカプリオも飛んだ岩から飛び降り「ヘオナロック」に挑戦しろと、その場で言われた。高所恐怖症の淳は断ったが、スタッフも諦めない。結局、昼が夜になり、18mが3mになり、まったくおもしろくない映像で終わった。

 むずかしすぎるバラエティのノウハウ、油断をすると大事故になりかねない危険性、視聴率という恐ろしすぎるリアリティなどを、身を持って知ったロンブー。この奮闘は見事に評価され、翌97年には『ぷらちなロンドンブーツ』となって生まれ変わり。深夜枠ながらも、30分、45分、55分と徐々に放映時間は長くなり、出演者の幅もグンと広がった。

 彼女の浮気を疑っている男性からの依頼を受けたロンブーが、「ロンドンブーツだ!!」の発声と同時に、女性宅に侵入する名物企画『ガサ入れ』は、いつしか看板コーナーに。ここで淳の手腕は発揮され、研磨され、“ロンハー”でおおいに役立っている。テレ朝によって育まれた、ロンブーのバラエティ脳。今後も、テレビ業界にどんどん新たなケンカを仕掛けていくに違いない。

(伊藤雅奈子=毎週木曜日に掲載)

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