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愛知県東三河地方の伝説 「持統(じとう)天皇の三河行幸の謎」

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画像はイメージです。

 小倉百人一首の「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」の作者である第41代天皇・持統天皇(645-702)は天智天皇の第二皇女で、天武天皇の皇后でもある。天武天皇崩御の後、即位して藤原京を作ったことで知られている。

 晩年の持統天皇の三河行幸について『続日本紀』では、行程や日程には不可解な点がみられる。「大宝2(702)年9月19日、伊勢・伊賀・美濃・尾張・三河の五国に行宮を造営さす」とある。行幸の対象はこの五国であった。また「大宝2(702)年10月10日、太上(持統)天皇三河行幸」、「大宝2(702)年11月13日、尾張国到着」、「大宝2(702)年11月25日、帰朝」とある。尾張国から帰朝は陸路の行程とされる。三河への行程は不祥だが、『万葉集』の歌や海流を考慮すれば、伊勢〜三河までの往路は海路と考えられる。この行程によれば、32日間を三河で過ごしたことになる。しかし、三河行幸の目的は不詳である。

 『続日本紀』などを読み解くと、三河行幸の目的は下記の4項目と考えられる。
(1)三河の地において、壬申の乱の論功賞が行われたと考えられるが、『続日本紀』では、壬申の乱において褒賞を受けた三河地方の豪族はいないのである。

(2)愛知県豊川市にある砥鹿神社は701年に勅命を受けて建立されたと伝承にある。また三河行幸前後、三河では勅命により、数多くの寺社仏閣が建立されている。このことは、持統天皇が伊勢・三河で行った殺戮・陰謀に対する鎮魂の意味もある。

(3)『続日本紀』では、朝廷内部において、三河行幸は同時期に行われた薩摩隼人の征討と同様に要所に警備兵を配置し、神社に無事を祈願したとある。行幸は反朝廷勢力の制圧が目的であった。

(4)持統天皇が推し進める中臣神道の皇祖天照大神を頂点とする神社体系と中央集権を目指す天皇制に対して三河の地では障害となる神々が跋扈していた。さらに砥鹿神社を始めとする古社の抵抗があった。持統天皇による中臣神道への改宗や祭神の天照大神への遷座が行われた。しかし、『続日本紀』にはその目的や行跡は記載できなかった。また『日本書紀』や『続日本紀』においても、三河に関する存在・歴史を削除させ、地名を置き換えた為、三河は日本古代史から完全に抹消させられてしまった。
(写真:「砥鹿神社」愛知県豊川市一宮町西垣内2)

(「三州の河の住人」皆月 斜 山口敏太郎事務所)

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou

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