地元の歴史公証家筋によれば、各地に分散していたところの遊女屋を、風紀を乱すという理由で、日本橋(当初)に集めた、というのがその興りとされる。
当時、太夫(嬢)たちは、一か月分の給料を前借りしていた。いわゆる、バンスである。
またまた公証家筋によると、引退しても故郷にも帰れず、異郷の地にあってもほかの仕事もしずらいので、過半数の嬢たちは楼主の元に舞い戻ってきたらしい。
いっぽうで、火事でもなかったら逃げ出せない、ということもあった。
そして、1657年の振袖火事により現在の地(台東区千束界隈)に吉原が移転してからは、四方に「おはぐろどぶ」なる堀が張り巡らされ、9つの跳ね橋に警護が置かれ、主と裏の大門も夜中は閉めきる、という事実上の軟禁体制はその完成に至った、とも云われている。それ以来は、年数のある契約は形ばかり、正式な開放はなかったようだ。(堀の跡などを確認してみるのも一興かも)
よって、大引け(午前二時過ぎ)に『蘭蝶』という曲が新内流しによって唄われると、身につまされる絶望を感じた太夫たちが客に情死を迫ることが、度々あったらしい。
界隈を散策していると、時折、タイムスリップしてきたような人、とすれ違ったような気がしたものだ。
そんな時空の歪みがありうるのかはわからないが、悲史がありながらも、どうにも不思議な、心の琴線に触れるような魅力に彩られた町なのであった。(続く)