ところが、これを受けた山一とメインバンクの3行の協議は行われたものの銀行側が応じず、協議は決裂となった。山一は大蔵省に、もはやこれまで、「倒産覚悟」を伝えた。田中の動きは、常に素早い。山一が「白旗」を伝えたその日の夜、3行の頭取を呼び、大蔵省側との最終談判の場を持った。場所は東京・赤坂の日本銀行氷川寮の一室。息詰まるドラマは田中が国会で時間を取られていたことから、夜9時を回った頃に始まった。出席者は大蔵省側から田中蔵相、佐藤一郎事務次官、高橋俊英銀行局長、加治木俊道財務官、メインバンク側からは岩佐凱実富士銀行頭取、田実渉三菱銀行頭取、中山素平日本興業銀行頭取、そして、日銀からは宇佐美洵総裁ではなく佐々木直副総裁であった。
ここで、日銀側があえて副総裁が出席したのには理由があった。宇佐美総裁としてはメインバンクが責任回避をした場合、最後は日銀に泣き付くのでは、との警戒感があった。その「日銀特融」を総裁としてスンナリのむことはよしとしない上で、宇佐美は田中と何かとライバル視されていた福田赳夫(後に首相)に近い佐々木を出席させることで日銀側の“抵抗”を試みたとの見方もあったのだった。
案の定、メインバンク側は融資に抵抗、会議は難航、田中における「次善の策」は崩れたかに見えたが、ここで巧緻極まる「三善の策」、すなわち田中一流の「芸」が出た。田中はとりわけ親しい中山興銀頭取に、まずこう話を振った。「どうだ、興銀で200億円出さんか」と。中山が答えた。「そのくらいなら出せますよ。しかし、つぶれそうな会社に200億円も出すようなことになれば、次の日に私は頭取を辞めます。第一、そんなことをしたら興銀の債権をどの銀行が買ってくれるというのですか」。田中は薄く笑って見せたのだった。
田中のこの中山への“振り”には、実は裏があった。すでに、こうした“振り”は事前に田中と中山との間でデキており、田中としては興銀に協力ノーを言わせることで、結局は「日銀特融」しかないという結論に持っていくシナリオだったのだ。
そんな難航の話し合いの場に、折から株主総会終了のパーティーに出ていたことで到着が遅れていた田実三菱銀行頭取がやって来、やがて周囲の会話を聞きながら口を切った。
「まぁ、この場で早急な結論を出さず、取引所を閉鎖した上で善後策を改めて討議したらどうでしょう」
ここで、田中のダミ声、一喝が出た。「君、それでも銀行の頭取か。(山一危機が)都市銀行だったらどうするのかッ」。田実は震え上がった。蔵相とはいえ、皆の前で年若の田中にこう一喝されては大銀行の頭取として面目も丸つぶれの場面である。田中と親しい中山が、「まぁ、まぁ」とこの場をとりなしたものであった。
ここからは、田中の思惑通り「日銀特融」へ一直線となった。
中山に「興銀の融資は事実上無理」と言わせ、次いで田実三菱銀行頭取を一喝することでメインバンクの融資策は絶望を印象付け、もはや「日銀特融」しかないという既定路線に結論を導いたということだった。
田実を一喝したことで、しばしその場は重い空気が漂っていた。そうした中、やがて佐々木日銀副総裁がすべてを悟ったように切り出した。「やむを得ません。日銀が山一を支援しましょう」。
かくて、日銀法二十五条が発動され、山一の282億円に加えてやはり危機的状況にあった業界中堅の大井証券の53億円の「日銀特融」が同時に決まったのだった。
一方、田中はこの「日銀特融」を決めた直後の記者会見で、「これは無担保、無制限の日銀貸し出しである」と強調した。
当初、大蔵省幹部、日銀との間で詰めたものは「無担保、無制限」との文言は入っていなかった。田中の中には、この支援額で立ち直りを見せない場合はさらに国民の動揺を招くとの考えが入っており、その場合のさらなる追加支援の余地も残したということだった。
水際立った田中の決断、その手法と言えたのだった。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。