三宅坂交差点には小さな公園がある。最高裁判所をバックに、3人の裸婦像がそびえ立つ。大手広告代理店電通の前身・日本広告と合併したニュース通信社・日本電報通信社が昭和25年、「広告がわが国の平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい」と建設した広告記念像だ。
像の裏手に回ると、ここが崋山生誕の地でもあることを知る。表通りからは像に隠れて見えないが、雑草の中の立て看板に「渡辺崋山誕生地」とある。雨ざらしのせいか文字が消えかかって読みにくい。それも「渡辺崋山は通称を登といい、寛政5年に三宅備前守藩邸内に生まれ、大部分をここですごしました」(昭和63年、千代田区教育委員会)などと簡素な説明にとどめられていた。
貧乏藩士の家に生まれた崋山は、食べるものに困るほど生活に苦しんだといわれる。子供のころから絵だけは上手で、一家のために描いては売ってを繰り返して生計を助けた。やがて絵画の腕で名を上げると、藩政に携わる。天保の大飢饉では、藩内で節約生活を推奨し、非常食を蓄えていたため、全国で唯一餓死者を出さず幕府から表彰されている。
しかし、政争に敗れて切腹。貧乏画家のお手本であり、政治家のお手本でもある崋山。選挙向けの国民受けする政策だったり、保身・延命ばかり考えている永田町で、その生誕地がひっそりと示されている。